がさごそと、父さんがキッチンで何かを捜しているのが視界の端に映り、

俺は小説をテーブルの上に置いてそちらの方向に意識を向けた。

 

◇はちみつ◇

 

寒さの厳しい日曜の昼下がり。

俺は外に出るのが面倒で、暖房の効いたダイニングのソファーで

昨日買ったばかりの小説を読み直していた。

本当は昨晩に全て読み終えてしまったのだけれど、

こうやって二度よみするのもまたひと味違って楽しめる。

 

目の前には小説をゆっくりと読むための三種の神器が揃っている。

コーヒー、暖房のリモコン、そして母さん特性のケーキ。

 

小説の合間にコーヒーへ手を伸ばし駆けたとき、ガシャーンっと騒がしい音が耳に入ってきた。

 

 

「お父さん、なにやってんの!?」

 

いち早く父さんのところに来たのは由佳姉さん。

さきほどまで傍で雑誌をめくっていたはずなのに、本当に動きは機敏だ。

ちらかった鍋を拾い上げながらあきれ顔で父さんを見ている。

 

「いや、ちょっと捜し物。」

「何を?」

「んと、ハチミツ、無かったかと思ってさ。」

 

父さんはイタズラがばれた子供のようにすこし気恥ずかしそうに

こめかみの辺りをポリポリと掻いた。

それに由佳姉さんはさらに不思議そうな表情となる。

たぶん、ハチミツの使用方法が思いつかないからだろう。

 

甘党好きな父さんのことだ、たぶん舐めようとでも思ってるのかな?

 

俺はそう考えながら、再び小説に手を伸ばした。

だがその手は虚しくも空を切る。

机の上にあるはずの小説は、目の前で足を組み優雅にお茶を飲む妹の手中にあった。

 

「・・・由梨。」

「まだ、私、読んでないのよ。」

 

俺が何か言おうとするのを遮るように、告げると由梨は視線を少しだけ動かした。

それでもすぐにまた、小説に視線を向ける。

 

「あのなぁ、順番くらい守れよ。」

「放棄されていたの、机の上に。」

 

投げやりな言い方。視線は活字を追っている。

この状況はもはや話などしているようでいていないようなもの。

由梨は完全に小説に熱中している、こうなったら地震でも起きないと話など聞かないだろう。

俺はそう判断すると大げさにため息を付いて、

今度は右側に置いていた母さん特性のケーキへと手を伸ばす。

母さんが昨日、休みを利用して作っていくれた俺好みの甘さのケーキ。

愛情たっぷりのそれは、小説よりも楽しみなモノ。

 

「すこし、苦くないか?これ。」

「雅斗兄・・・っ」

 

皿に残っていた最後の一切れをぽいっと口の中に頬張っている雅斗兄さんの姿を見て

俺はもはや怒る気力さえなかった。

由梨といい、目の前の兄貴といい、どうしてこんな家族なのだろう。

キッチンでは未だに由佳姉さんと父さんの“ハチミツ捜索”が継続中だ。

ガチャガチャとうるさい音を立てている。

 

「ハチミツ、上の棚にないか?」

「雅斗、知っているならはやく教えなさいよ。」

「わりぃ、わりぃ。」

謝罪の言葉などひとかけらも含まないような口調で、雅斗兄さんは2人のもとへと向かう。

そして上の棚から、瓶詰めのハチミツを取り出し、父さんに手渡した。

 

「で、これ、何に使うの?」

「ああ、それは。」

 

父さんがそう言って俺の方を見る。

いや、正確には俺の隣だ。

 

「やっぱ、悠斗のコーヒーは世界一だな。」

 

いつの間に来たのだろうか、そこにはコーヒーを飲む母さんの姿。

これで三種の神器はすべて家族に奪われてしまった。

それでも、最後の一品は奪われたことになんの惜しみもない。

なんてったって、相手は母さんだ。

むしろ、喜んで貰えて俺の機嫌は少しだけ上昇した。

 

「新一、こっち。」

「ん〜?」

 

父さんに呼ばれて母さんは生返事をする。

もうしばらくコーヒーを味わいたかったようで不満げな表情をしている。

 

「ハチミツ見つけたんだから。」

「ハチミツ?なんでそんなモノ。」

「新一のためだって。」

 

しびれを切らした父さんが、キッチンからハチミツの瓶を持って近づいてくる。

その後ろを由佳姉さんと雅斗兄さんが興味深げに付いてきていた。

母さんはその間も、コーヒーを飲み、飲み終わるとありがとうと俺に返す。

俺は柄にもなく、母さんが口をつけた箇所を凝視してしまった。

 

「唇、乾燥してるから。」

「別に気にならないけど?」

「だめっ。新一はいつも舐めるだろ。」

 

俺がコーヒーの飲み口に意識を傾けている間だ、近くで聞こえる2人の会話。

 

その会話のなかにほんのりとした暖かさを感じるのは俺だけではないはず。

日頃は誰にでも優しい父さんが、とろけるような笑みを向けるのも、

演技的な表情しか他人には見せない猫かぶりな母さんが、少しだけ甘い声を出すのも

2人で会話をするときだけ。

 

もちろん、同等の愛情を注いでくれていることだけは分かる。

 

でも夫婦は別格なんだ。

以前、雅斗兄さんがそう言っていた気がする。

 

なんだったっけ、ほら、あの人気グループの歌・・・。

“もし子供が産まれたら、世界で二番目に好きだと話そう。”

まさにそれなんだ。

 

 

「リップなら私持ってるよ。」

暫く様子をうかがっていた由佳姉さんは事の察しが付いたのか

そう言って、スカートのポケットに手を突っ込んだ。

ピンクのパッケージのリップクリームが出てくる。

だけど、父さんがそれを受け取ることはなかった。

 

「ありがと由佳。でも新一の唇に人工物は絶対にダメなんだ。」

 

その場が一斉に静まるとはまさにこういうことだろう。

外で吹き荒れていた北風もがピタリと動きを止めた。

そんな感じ。

 

確かに母さんは体が弱いけど、加工食品なんかも結構食べる。

好物の中に、“じゃがりこ”なんてのも含まれている。

 

それなのに・・・何で?

 

俺が不思議そうにしていたのに気が付いたのか、由佳姉さんが軽く肩をすくめて見せた。

大人の世界はいろいろなのよ。そう唇だけを動かして俺に伝える。

その“大人の世界”がなんなのかは分からなかったけれど、

いわゆる嫉妬の部類なのだということはなんとなく分かった。

 

「で、効くのか?ハチミツ。」

「もちろん、塗ってあげるから。ほら。血の味が口の中でするの嫌だろ。」

 

子供を説得するような優しい口調で、父さんは母さんをうまく丸め込んだ。

服部のおじさんは、父さんは母さんに頭が上がらないって、言うけど、

俺から言わせれば、母さんも父さんには充分甘いと思う。

 

素直に父さんの言葉に従って上を向くと、自然と目も瞑っていた。

たぶん癖なんだと思うけど・・・ああなったら父さんが何もしないはずはない。

 

俺の予想は的中で、父さんの口元が歪んだのが見えた。

 

ポーカーフェイスって大事じゃなかったっけ?

 

ハチミツの小瓶に父さんの細くて綺麗な指が入る。

魔法を生み出す手、世界を魅了する手に・・・はちみつ。

なんとも奇怪な組み合わせだ。

 

そして母さんの唇に丹念にそれを塗っていく。

口紅を塗るような要領で。

母さんの瞼が時々ピクッと動くたびに父さんは嬉しそうな表情になった。

 

オレ達兄弟はなにもできずにそれを凝視している。

あの由梨までが小説を机の上に放棄しているほど。

それだけ、2人の空間は見逃すと一生後悔するほどの一場面だった。

 

ハチミツを塗り終わって、父さんは人差し指をそっと舐める。

 

「終わったのか?」

唇に感触が無くなったからか、母さんが父さんに尋ねた。

 

「さいごの仕上げ。もうちょっと待ってね。」

父さんはそんな母さんに優しく告げる。

 

父さんの言葉に首を傾げる母さんは俺の目から見てもすごくかわいい。

美人ってよく言われるけど、信用した人間にはとことん無防備な姿は

“かわいい”っていう形容のほうが似合ってると思う。本当に。

 

父さんはハチミツの小瓶をテーブルに置いて、目を瞑ったままの母さんに顔をグッと近づける。

まったく子供の前ってことを忘れているようだ。

ゆっくりと顔が近づいて、父さんがキスを仕掛ける。

突然のことにバランスを失った母さんを父さんが両手で支えて、

およそ数十秒、濃厚なキスが続いた。

 

俺は金縛りにあったようにその光景を凝視する。

もちろん、雅斗兄さんや由佳姉さん、それに由梨も俺と同じような状態。

身内のオレ達でもこうなんだから、他人が見たら殺到しているに違いない。

 

「快斗っ。」

「いやぁ、新一があんまりにも無防備だったんで。」

「おまっ、子供の前で。」

「あれで我慢できる人間はいないって、おまえらだってそう思うだろ。」

「小学生に同意を求めるんじゃねーーー!!!」

 

この先も予想通りの展開。

真っ赤になった母さんもまたすごくかわいい。

まったく父さんは世界一の幸せ者だよ。

こんなに綺麗でかわいい母さんが奥さんで。

 

だけど、こんな両親の息子である俺も、結構幸せ者なのかもしれない。

そんなことを思う、日曜の昼下がりの出来事。

 

 

あとがき

悠斗君視点で、ご両親を観察してもらいました。

まだ、悠斗が小学校4年生くらいの設定です。

 

Back