新一が俺の目の前に現れて4日が過ぎようとしていた午後のこと。 ひっそりと顔を布で包んだ男が進路を塞ぐように現れた。 男はチラリと周囲を見渡し、ある人物が居ないことを確認すると 片手を胸元に当てて深く礼をとる。 「黒羽様、少々お時間をいただけませんでしょうか?」 男の申し出を断る理由はなかった。 それに、 「俺も会いに行こうと思っていたんですよ。ヒロサワさん。」 〜幻想の館〜 「今日、新一様は?」 「宮野と違う講義をとってます。 俺は空き時間だったから、ちょっと調べ物をしようかなって。」 大学内にあるcaféは講義時間とあってか人はまばらで。 また、各々自分の時間を楽しむ者が多いためか、 ヒロサワさんの格好にもチラリと視線を向けるものの、すぐに興味を逸らしてくれた。 始めは学外にとも思ったけれど、逆に学内のほうが安全な気がして 俺は躊躇気味のヒロサワさんをここまで案内して安いコーヒーを差し出す。 口元だけは布がないため、カップをそっと手に取ると、 ゆっくりとコーヒーを味わい彼はおもむろに口を開いた。 「主人は気づいております。貴方がしようとしていることに。」 「そうでしょうね。むしろそれが目的で新一を俺のところに預けたんじゃないんですか?」 「・・・黒羽様。主人を侮ってはなりません。あの方は恐ろしい。本当に。」 ギュッと白い手袋に包まれた手を握り締めて、 押し出すように必死に発せられた言葉には恐ろしいほどの説得力がある。 きっと館を抜け出てここに来るのも大変だっただろうと思い俺は彼を労うように深く深く頷いた。 「親父にも言われました。この件には関わるな、と。」 「でしたら!!」 「それでも俺は、新一を助けたい。」 「新一様はご自身の運命を受け入れておられます。」 「・・・本気でそう思ってんの?」 ヒロサワさんの言葉に噴出しそうになる怒りを必死に押し留める。 けれど殺気は多少、漏れていたらしくビクッと彼は体を硬直させた。 遠くでは学生の馬鹿笑いが聞こえる。 そんな声をのんきなものだと思って聞きながしながら、少し冷めたコーヒーを口に含んだ。 「黒羽様はどこまでご存知なのでしょうか?」 長く息をついて呼吸を整えると彼は探るように俺を見つめる。 といっても、目はほとんど布で見えないため、そんな気がする程度だが。 「相沢さんが恐ろしい薬を作ったってとこまで、・・ですかね。」 「さすがは盗一様のご子息ですね。たった数日で・・。」 「俺には協力者が居ますから。それに、残された時間は半分もない。 本当は、新一を連れて雲隠れも良いかなって思ったんです。 誰も知らない場所に2人で行っても良いなって。けど、新一はきっと来ないから。」 誰よりも他人を優先するのだと、この数日、共に時間をすごしてよく分かった。 彼が自分を押し殺し、相沢に付き合うのも、きっと大切な誰かのためなのだ。 その誰かに、自惚れではなく確実に自分も含まれており そのことを、嬉しく、けれど今はどこか苦しくも思えた。 「そこまでお分かりなら、新一様の意思を無駄にしないでください。」 「ヒロサワさん?」 「私が今日、ここに来たのは・・・新一様に頼まれたからです。」 思いがけない一言に俺はカップを思わず落としそうになる。 今日、ヒロサワさんが来たのは自分の意思か相沢に頼まれてかだろうと踏んでいた。 先ほどのヒロサワさんの言葉や態度で、 相沢に頼まれたわけではないことは分かっていたが、まさか・・・。 「新一に・・・?」 「あんなに必死に頼み込まれたのは、初めてのことでした。」 ヒロサワさんによると何も要求しない新一が彼に連絡したのは昨日の夜。 携帯を持たないヒロサワに、初日のときに新一はこっそり自分の携帯を彼に預けたという。 その携帯へ連絡してきたらしい。 『快斗を説得してください。一生のお願いですから。』と。 「おそらく、主人は黒羽家もまた邪魔に思っております。 新一様を黒羽様に預けたのもそのためかと・・・。」 「何でうちを。」 「黒羽盗一様が知っているからです。全てのことを。」 「親父が?」 「はい。主人は盗一様は共犯者だと仰っておりましたから。」 何か硬い、とても硬い何かで頭を殴られたようだった。 喉がからからに渇いて、思わずコーヒーをすべて飲み干す。 嘘だ、嘘だ。 そう思っても、確信が持てないのは、 その可能性が出てきていたことにおれ自身気付いていたから。 調べれば調べるほどに、この事実が警察にも介入されない理由が分からなくなっていった。 工藤家は、古くから続く名家で、収入は新一の父である優作氏の 執筆活動のみとは言っても、工藤家に恩義のある一流会社の会長やら社長やらは多く 彼はその全ての会社の顧問的な立場に居たのだ。 そんな工藤家という、当時はひとつの財閥にも等しい大きな一家の消失を こうも奇妙に隠し通せたのも、親父だからと思えば、妙に納得がいった。 あの人もまた、優作氏に似た立場をもっているから。 もちろん表ではなく、裏の顔として。 「主人にとって、今や盗一様は秘密を握るもうひとつの恐怖。 新一様をご子息に預けることで、それによってあなたが真実を探ることで 盗一様に枷を嵌めようとされたのではないでしょうか。」 「俺が新一を攫えば?」 「間違いなく工藤家の事件を盗一様の責任にして公表するでしょう。 当時の1人息子は貴方と共に居るのだから、揺るぎない証拠となります。」 「攫わなければ?」 「明後日に薬を投与されるでしょう。成功すれば新一様は一生、主人の下で働き 失敗すれば・・・工藤家の一族が滅びる。言わば完全なる証拠の喪失です。」 「どう転んでも、相沢さんの思うがまま・・・ってわけか。」 「はい。しかし後者なら、黒羽家は存続できます。 主人にとって薬さえ完成すれば後はどうなっても良いのです。」 ヒロサワさんはそこまで語り終えると、音も立てずに椅子を押し立ち上がる。 俺はそんな彼に視線を向けることなく、ギュッと手を握り締めた。 新一のために何かをしたいとがむしゃらに動いたというのに。 その全てが無意味になった気がして。 「黒羽様。ご自分を責める必要はございません。全ては運命。 貴方様はただ、巻き込まれただけなのですから・・・。」 ヒロサワさんの声がただの音の塊のように耳の中を素通りする。 そんな気休めなど今の俺には何の意味も無いから。 そんなことよりも・・・今は。 「し・・ん・・い・ち」 「黒羽様?」 「新一は!?」 勢いよく立ち上がったため椅子が後方に大きく倒れた。 その音に騒がしかった食堂は一瞬、波が引くように静寂な空間となり 全ての視線が俺達に注がれたが、たいしたことでないと分かると すぐにまた学生たちは会話を再開する。 俺にとっての一大事も、彼らにとっては他人事だから。 「新一は一体何をしようとっ・・。」 「黒羽君!!」 ヒロサワさんの襟元を持ち詰め寄った俺の背後から、宮野の泣き叫ぶような声が届く。 まるで頭をよぎった最悪の事態を肯定するかのような声が・・・。 「時間が動き出したってこと?」 宮野が快斗の元へ駆けつける少し前のこと。 彼女は新一とともに講義室へと向かっていた。 絵に描いたような美男美女の歩みに自然と学生は道を作り、 2人は会話に集中して中庭を横切っていく。 柔らかな風が頬に辺り、細くて軽やかな新一の黒髪がサラリと揺れた。 「ああ。そんな感じなんだ。快斗といると。」 「彼に出会う前まではどうだったの?」 「う〜ん。幼いときはよく覚えてないけど、ぼんやりしてたかな。 毎日、決まったように動いててさ。俺じゃないみたいな。」 以前のように過去を聞いても新一が拒絶反応を起こすことはなくなっていた。 そのかわり、思い出すことも諦めたようで宮野にはそれが少し寂しくもある。 一緒にすごした思い出が彼に無いのは正直辛い。 だが、記憶を完全に封じることで彼が笑えているのなら、と思っているのも事実だった。 現に彼の瞳には今は意思が見え隠れしており、完全に元通りとはいかないまでも、 裏庭であった時よりは明らかに良くなっているから。 「ぼんやり・・ね。まぁ、良いじゃない。これからも時間は刻み続けられるんだから。」 「え?」 「だってそうでしょ。黒羽君、金魚の糞みたいに貴方に付きっきりだもの。」 そう言って笑いかけようとした宮野は新一が立ち止まっていることに気付き、軽く首をかしげた。 何かおかしなことを言っただろうか。 「工藤君?」 「そうだったら・・いいな。」 「ねぇ。もしかして、帰ろうとは思ってないわよね? 言ったでしょ。あなたはもう自分の意思で動いて良いのよ。」 彼の細い手首を強く掴んで諭すようにゆっくりと宮野は言葉をつづる。 期限付きだと相沢は彼に告げたけれど。 彼から全力で守る気は宮野にもそして快斗にも充分あることを新一自身分かっているはずだった。 「宮野、俺。」 「工藤君。過去に何があったかはわからないわ。でもね、貴方はいまここに居るの。 私達と共に学び、毎日を生きているの。だから・・・。」 「そんなに彼を悩ませないでくれないかな?・・・志保お嬢様。」 先ほどとは似ても似つかない強い風が、新一と宮野の間を駆け抜ける。 その突風に傍を歩いていた学生が「きゃっ。」と小さく悲鳴を上げた。 全身に感じる震えに宮野は思わず新一の手首を話す。 そして風によって舞う髪を耳元へと押さえつけると、彼女は必死に声の主を見据えた。 「相沢・・・さん。」 「お美しく成長されましたね。お父様とお母様はお元気で?」 「・・・・っつ。」 「ご主人様!!彼女は関係ありません。」 苦痛に顔をゆがめる宮野を庇うように新一が一歩彼へと近づく。 そんな彼を眺めながら相沢は満足そうに微笑んだ。 「おやおや。ずいぶんと綺麗な蒼い瞳に戻ったものだね。新一。」 「ご不満ですか?」 「いや。それも一興だよ。 しかし、思ったよりも回復が早くて予定を変更しなくてはならなくなった。 1週間と言ったけれど・・・新一、もう帰る時間だ。」 「・・・はい。」 「工藤君!!」 「志保お嬢様、黒羽君にもよろしく伝えてくださいね。では。」 動きたくても、彼を止めたくても、宮野の体は恐怖から一歩も動けない。 ただただ小さくなっていく背中を見送ることしか出来なくて・・・。 「まるで、幻想のように消えたのよっ。最初からここに居なかったみたいに。」 そう言ってすがり付いて泣く彼女に俺は何も言葉をかけられなかった。 |