蒸し暑い夏の盛り。 セミの鳴き声が辺り一面に響き渡り、なま暖かい風が吹き抜ける。 太陽は沈んだけれど西の空はまだ明るく、校庭に校舎の影が長く伸びている。 何を思ったのか分からないが、気がつけば新一は学校の脇にある 水が張られたばかりのプールに飛び込んでいた。 −麻痺− 「絶対なにかあったんだ。」 快斗は携帯電話を睨み付けてそう呟いた。 先程からなんども恋人に電話するけれど、一向に出る気配はない。 事件の要請だろうかと、なじみの警部にも連絡したが空振りだった。 誘拐・事故・事件 日本の安全神話が完全に崩壊してきた現代にそれらは起こり得ること。 頭に浮かんでは消えるそれらの嫌な予感を全てかき消すために快斗は走り出した。 ようやく視界に映った校舎はがらんともぬけの殻。 とてもじゃないが人のいる気配などしない。 それでも、快斗にはしっかりと新一がいることを感じ取ることができた。 もちろん根拠などは何もない。 だけど、根拠よりも信用のおける第6感が彼の存在を提示していた。 天空に浮かぶのは、月と星。 新一は水面に浮かんだまま、ぼんやりとそれを見つめる。 月はひどく新一の心を落ち着かせ、そして時には激しく心を揺さぶる。 月はアイツ。気障な怪盗。 太陽はアイツ。俺の恋人らしい男。 いつまで経っても月=太陽だとアイツは言わないから。 だから水なんかに飛び込んだのだろうか。 新一はそんな事を思って苦笑する。 いつのまにか、押し掛けてきたあの男の存在が自分の中で大事な位置を占めていた。 人の足音が聞こえる。 誰だろう・・・なんて思うことはない。 間違いなく、月であり太陽であるアイツが来たんだ。 帰らない自分を心配して。 水面に浮かぶ新一を見た瞬間、快斗はとてつもない不安に襲われた。 もちろん仰向けだから、溺れたなんて思わない。 だけど、月に輝く水面の中に新一が溶け込みそうだと本気で思った。 「新一っ。」 片手で柵を乗り越え、洋服を着たままプールに飛び込む。 水面に映った月が歪んだ。 「何してるんだよ。」 怒って水をかき分けやってくる快斗に新一もようやく体を垂直に立てる。 そして快斗に気づかれないようフウッと軽くため息をついた。 近づいてきた快斗は新一の手首を掴んでグイッと引き寄せ抱きしめる。 そして予想以上に冷え切った体に眉をひそめた。 「新一。正直に答えろよ。いつからここにいた?」 「・・・わかんねぇ。」 コテンと快斗の肩に顔を埋めて新一は気の抜けた返事を返す。 そして、まるで暖をとるように快斗をギュッと抱きしめようとした。 だけれど、冷え切った手は上手く動かなくて・・・。 「夕焼けがさ・・水面を染めてた。」 少しずつ戻っていく感覚に合わせて、言葉を選ぶ。 本当はもう少しまえからここにいたけれど、そう言えば彼は怒るだろうから、 敢えて口にはしなかった。 「なぁ、何かあったのか?」 ゆっくりと快斗は新一の肩を押し、顔を向かい合わせる。 月明かりの下で見る新一のひとみはどこか輝きが薄く、おぼろげだった。 新一は快斗の問いかけに黙って頭をふる。 言えるわけがない。 おまえがKIDだと知っている。なんて。 「俺には言えないこと?」 わざと1オクターブ声を落として、快斗は再び優しく尋ねる。 新一がこの声に弱いことを知っているから、反則だとは思ったけれど、 気がつけば自然とその声色は出ていた。 はやく原因を聞きたい。 そして、少しでも良いからその痛みを分けて欲しい。 それだけの切実な思い。 だけど、新一は一向に口を開かなかった。 まるで、言葉を忘れてしまったかのように。 「新一?」 押し黙ってしまった新一に快斗は困惑のひとみを向ける。 彼が何も言わないとは、そこまで信用されていなかったのだろうか? 確かにもう一つの顔を彼には告げていない。 いや、ひょっとしたら気がついているかもしれないが・・ それでも快斗は新一にそれを告げるつもりはなかった。 ただでさえ組織の残党から狙われている彼を余計なことに巻き込みたくない。 そんな自分勝手な考えで。 「とっ。」 パシャン 思考に没頭していたために一瞬できた隙を新一は見逃さなかった。 グイッと快斗の体を押しやって、水の中に潜る。 そして、一番深い位置に沈み、上に浮き上がらないよう体重をかけた。 垣間をいれず快斗は新一を追った。 新一は水の中で目を瞑っている。 まるで、浮き上がる気配など無い。 そう、それは拗ねている子供のように。 快斗はいつもからは考えつかない新一の幼い行動に戸惑いながら 強引に彼を水面へと引き揚げた。 ゲホッ ゲホッ 新一が抵抗するものだから水が口から入ってお互いむせる。 「何、・・・考えてんだっ。」 「俺だって・・わからねーよっ。」 荒い呼吸を整えながら気がつけばお互い、猛獣のような目つきでにらみ合っていた。 新一の行動が理解できない。それは新一自身も同じようで・・・。 「ただっ。ただ・・・・感覚を麻痺させたかった。」 「感覚?」 「そう、麻痺でもさせねーと。俺はお前に一番にいたいことが言えない。」 だから冷たい水に飛び込んだ。全ての体温や心に残る情が消えてしまうように。 麻痺してしまうようにと・・・。 「一番言いたい事って何だよ。」 「お前の仕事。」 「は?」 「とぼけるなっ。KIDのことだ!!俺が気づかないとでも思ったのかよ。 本当はこんな形じゃなくてお前の口から聞きたかった。 だけど、いくら待ってもお前は何も言わないし、体に傷を作ってきたって押し隠す。 俺ってそんなに頼りないのか!!答えろ、快斗っ。」 グイッとワイシャツの首根っこを捕まれて快斗は一瞬、何が起こったのか分からなかった。 新一は何の反応も示さない快斗に“もういい”と告げて手を離す。 そして、バシャッとプールから上がった。 「悪い。忘れろ。」 「ちょっ、新一。待てよ。お前だけ言いたいこと言って。」 快斗は急いで新一の腕を掴む。 もちろんプールの中から掴んだので新一はバランスを崩し再び水面へダイブした。 「っつ、てめっ。」 「人の話を聞かない新一が悪い。」 「だからって、急にひっぱることないじゃねーか。心臓が止まったらどうしてくれる。 小学校でも習うだろ。水にはいるときは足からゆっくりって。」 「その時は俺が人工呼吸してやる・・・ってそうじゃないっ。」 いつの間にか話題のずれていたことに気がついて快斗はビシッとどこかに ツッコミを入れた。 もし、ここに西の名探偵がいたのならツッコミの手の動きを指摘したに違いないだろうが、 もちろんのこと、ここにはいない。 「新一。真面目な話し、俺はおまえを巻き込みたくない。」 「だからそれがっ。」 「分かってる。俺の我が儘なんだ。」 新一は再び文句を言おうと顔を上げたのだが、 目の前に広がるその哀しげな表情に声がでなかった。 「新一を不安にさせたことは謝るよ。でもさ、体にハンデを持って、 組織にも狙われているあんたを、これ以上危険な目に遭わせたくないんだ。」 「ほんと、勝手な言い分だな。」 「うん。分かってる。本来なら、新一に近づかない方がいいかとも思った。 だけどさ、それじゃあ、俺は前に進めないんだ。不安で。 新一がいつも待っていてくれるから・・・がんばれるんだ。」 そう言うと快斗はもう一度新一を抱きしめる。 自分の気持ちが彼に伝わるように祈りながら。 「快斗。俺はお前とは背中を預けられる関係でいたい。どちらかに寄りかかるのではなく。 今は・・これ以上聞かない。全てが終わったら全てを俺に告げてくれればいい。 だけど、この気持ちだけは理解しとけ。」 「うん。ありがとう。新一。」 どうしようもない優しさに快斗はギュッと新一に回した腕に力を込める。 そして、新一の頬、瞼、耳、唇に軽くキスを落とした。 いつからかわ分からないけどそれが、いつもの仲直りの印。 ぶつかり合って、喧嘩をして、最後に貰うキスが新一は好きだ。 優しいキス。それが麻痺させた心を解凍してくれるから。 「で、いつまで水の中にいるの?名探偵と怪盗さん?」 バサッと2人の頭の上にまっ白なタオルが落ちる。 そろりと横を見ればあきれ顔の哀がそこにはいた。 「哀ちゃん、俺達の話し・・聞いてました?」 「ええ。ばっちり。 貴方が怪盗だということをもうしばらく工藤君が知らないふり、するんでしょう?」 「それで、怪盗さんって呼ぶわけ?」 「これくらい良いじゃない。毎回、怪我を手当てしてあげてるのは、誰だったかしら?」 「仰るとおりです。」 ふふんっと笑う哀に快斗はガックリと首を垂れる。 新一はそんな快斗の頭を渡されたタオルでガサガサと拭いた。 「博士が来てるわ。黒羽君はともかく、工藤君はそんな格好じゃ帰れないし。」 「はぁ?何でおれだけ?」 新一は快斗の頭を拭いていた手を止めて不服そうに声をあげる。 それだけ、自分の体つきは世間様に恥ずかしいのだろうか? 「哀ちゃん、あんまり俺の新一を見ないでくれる?」 「あら、良いじゃない。これくらいの報酬、貰うわよ。貴方の治療代で。」 新一を引き寄せて背中に隠す快斗に哀はクスクスと笑う。 そう、今の新一の姿はとてつもなく妖艶なのだ。 マッドサイエンテストの哀までがいつまでも干渉していたいと思うほど。 体に貼り付いたワイシャツ、髪を滴る水滴。 すこしだけ、冷え切ったためか青みを帯びた唇。 その全てが人を引きつける。 「ほら、上がって。温かいコーヒーを用意してあるから。」 呆れたようにそう告げて去っていく彼女。 優しいキスを受けた後は、隣家の彼女のコーヒー。 これも、最近ではおきまりなのだ。 まったく迷惑な話ね。 哀は満月を見上げてそう思った。 |