桜の花が散り、新緑が芽吹き始めたころ。

とある廻船問屋の若旦那の部屋に1人の訪問者があった。

薄桃色の風呂敷に包まれた小箱を持ち、廊下を軽快に走ってくる。

その足音に部屋に居る鳴家たちは、慌てて屋根の裏へと戻った。

 

 

〜逃げ水〜

 

 

「新一。ついに完成したわよ!」

 

ガターンと勢いよく開くと同時に目の前に突き出されたのは、甘い匂いのする風呂敷包。

部屋で布団に入ったままの新一は唖然として彼女を見上げた。

 

「蘭?」

 

「これは毛利屋のお嬢さん。朝早くからどうなさいました?」

「快斗くん、できたのよ。ついに。」

 

とりあえず起き上がった新一に、快斗はさりげなく綿入れを一枚かける。

それに新一はもう初夏なのだから不要だとばかりに眉を顰めたが

当の本人はそれを笑顔1つで流した。

 

蘭はそんなやり取りに苦笑を漏らしつつ、

きっちり締められた風呂敷包を広げると中から黒光りする箱を取り出す。

 

そして、後生大事そうに慎重に箱を開けた。

 

「見た目には美しい菓子じゃないですか。」

「快斗。見た目には、は余計だ。」

 

相変わらずどこか人と感覚のずれている妖を咎めつつも

新一もまた綺麗な菓子を差し出されるままそっと手に取る。

 

薄く輝く翡翠色にスッと鮮やかな紅が映える金魚をかたどった菓子は

これからの季節には相応しく、どういう工夫が施してあるのか、

半透明のために中の餡がうっすらと透けて見みえた。

 

それがまた一層、涼しげな様子を醸し出している。

 

「この雰囲気を出すのに苦労したんだから。」

「ああ。凄いな。見事な、きんぎょ・・。」

「若旦那!!」

 

口に出さないでください。と快斗が悲鳴に近い声をあげた。

日頃から冷静沈着な手代から発せられたとはおよそ思えない声に蘭はコトリと首を傾げてみせる。

 

「あれ、快斗君も苦手なものが?」

「お茶を用意してきます。」

「クク。蘭、あんまり追求しないでやってくれ。」

 

スッと居ずまいを正して逃げるように部屋を出て行く快斗の背中を見送ると

新一は再び蘭の新作菓子を日に透かしてみてみた。

 

蘭が箱を開けた瞬間、必死に平静を装っていたけれど、快斗が顔を顰めていたのは確かで。

理由は良くは分からないが、快斗はなぜか魚が嫌いなのだ。

それを知っているのは、新一以外に平次だけであり、彼なりに必死に隠していた。

 

「餡は苦手だけど、こういうのは得意なのよね。」

「菓子屋は味も大事じゃないのか?」

「採点は味と見た目で行われるから、半分くらいは点が取れるはずよ。」

「採点?」

「うん。今度の菓子大会に出品するの。まぁ、店の名前は出さない約束だけどね。」

 

そう言って、蘭は菓子をひとつ手に取る。

ぱくりと口に運んで、一瞬眉を顰めたことは見なかったことにしようと新一は思った。

 

どうせ、快斗がお茶を持ってくれれば充分に味わうのだろうし。

 

するとどこから来たのか、鳴家が数匹、箱の中を覗き込む。

綺麗な菓子という言葉に我慢が出来なくなったのかもしれない。

元々、普通の人には見えない妖だから問題は無いのだが。

 

『きゅわ、綺麗な金魚だ。』

『これ、食べれるのかな?』

 

「声?」

「ゴホっ。ゴホッツ!!」

 

姿は見えないが声は聞こえる。

蘭が驚いたように箱を覗き込んだため、新一は咳をしてそれを誤魔化した。

 

だが、咳をすることは別の効能もあって。

 

「若旦那!どないかしたんか!?」

「蘭さんのお菓子が、体に障ったんですか!?」

 

「ちょっと、失礼よ。たっく、確かにしょっぱかったけど。」

 

どうにか鳴家の声から意識を逸らすことはできたが、再び布団に簀巻きにされてしまった新一に、

当の本人である鳴家たちはどこかすまなさそうな表情をつくるのだった。

 

 

 

 

蘭が帰った後、新一の寝屋には待ち焦がれたとばかりに妖達が出てくる。

まず先陣を切ったのは、先ほど新一に迷惑を掛けた鳴家たちだ。

チラリと新一を見上げ、彼が頷くのを確認すると嬉しそうに綺麗な金魚にかぶりつく。

身の丈の小さい小鬼のため、彼らにとっては手に乗るほどの金魚の菓子も大きな魚だ。

 

最初はパクパクと美味しそうに食べていたが、餡に差し掛かると途端に

ぎゅい、ぎゅいと苦しそうな声を上げた。

 

『蘭さんのお菓子は相変わらず凄まじいよぉ。』

『本当の金魚みたいな味だ。』

 

「おい、鳴家。いい加減にその言葉を連呼するな。」

 

新一が咳き込んだと慌てて薬湯を準備していた快斗がギロリと目を鋭くさせる。

だが、それに反応したのは、もう1人の付喪神。屏風のぞきこと探であった。

 

『相変わらず魚嫌いなんですね。全く若旦那をお守りする者が情けない。

 魚の妖に若旦那がさらわれたら如何されるおつもりですか?』

 

小ばかにしたような敬語がよけいに鼻に付くとは、平次の意見だが

このときばかりは快斗も大いに納得できた。

 

薬湯に入れる沸かしたての湯を柄杓で掬い、スッと屏風にかける。

その熱さに探は声に鳴らぬ声を上げた。

 

『水は止めて下さい!!』

「快斗!!」

 

同時に響いた声だが、間違いなく快斗の耳に入ったのは

目に入れても痛くないと心底思っている新一の声で。

 

快斗はニコリと笑みを浮かべて、「どうしました?」と彼に向き直った。

 

横で熱さに探が騒いでいようと全く気にしていない彼の様子に

新一は今日こそはちゃんと言っておこうと軽く体を起こす。

 

それに快斗は慌てたように彼の腰を支えた。

 

「若旦那、まだ寝ていないと。」

「さっきの咳が誤魔化しだってことくらい、わかってるだろ?」

「それでも昨日寝込まれたのは事実です。」

 

取り付く島もないとはこのことだろう。

ぴしゃりと快斗から言い切られ、さてどこから話そうかと新一は頭を悩ませる。

 

口が上手く、どこか人と感覚のずれている目の前の妖を説得することほど難しいことは無いのだ。

 

「快斗、前々から言おう言おうとは思ってたんだけどな。」

「若旦那、それよりも横に・・。」

「一昨日、三つ物売りが来た時のことだ。」

 

それは、寝込む前日のことだった。

 

夏めいて暖かくなったからと、薬種問屋の店先で帳簿の手伝いをしていたころ

鶯色の着物を着た男がひょいっと暖簾を潜って頭を下げた。

見れば顔なじみの三つ物売りのところの長男で、年は新一よりも5つほど上。

どこかひょろりとした印象を受ける顔立ちながらも体つきはしっかりとした男である。

 

三つ物売りとは、今で言う古着屋のような商をしている店だ。

古くなった着物を買い取ったり、修理したり、使えないものは端切れとして売ったりなど

最近、江戸城下でも増えてきている商売の1つである。

 

「こんにちは、若旦那。お久しぶりです。」

「お久しぶりです。母さんに用事ですよね?」

 

着物関係となれば、すぐに浮かぶのは母の顔。

母を呼んで来ようかと立ち上がろうとした新一に、

彼はゆるりと首を振りると、徐に口を開いた。

 

「それが、来月にも家の仕事を任されることになったので、ご挨拶に伺ったのです。」

「それはそれは、おめでとうございます。」

 

跡継ぎとして立派に店を仕切るのだと言う三つ物売りの長男に

新一は羨望の眼差しを向け、賛辞の言葉を贈る。

 

だが、彼は、手をぎゅっと握り締め、返事を返さない。

 

それに隣で薬を売っていた快斗が剣呑な表情を作った。

 

「三つ物屋。若旦那がお言葉を下さったんですよ。何ですか?その態度は。」

 

ギロリと鋭くなる視線に新一は慌てて快斗の袖を引く。

そしてそんな快斗の言動を咎めようとしたが、それよりも先に三つ物屋の長男が言葉を発した。

 

「今や三つ物屋は江戸中に溢れています。うちの店も最近は継起が悪く・・。

 あまりおめでたいとも言えないんですよ。ですから・・。」

 

「お金ですか?」

 

「快斗!!」

 

快斗の言葉に三つ物屋はカッと顔を赤くする。

確かにそれに近いことを頼みに来たのだろうが、

あからさまに言われてはさすがの彼も平静ではいられなくなった。

 

「私は若旦那のように頭も良くなければ、大店を継ぐわけでは無いのだ。」

「は?」

 

突然ふられた話に新一は驚いて目を見開く。

まさか恨み言を言われるとは思ってもいなかった。

 

ちょうど昼ごろとあって薬種問屋には客が居なかったのはせめてもの救いだが

やはり客商売の店先で騒がれるのは分が悪い。

 

新一はどうにか彼を中へと居れ、ゆっくり話でもしようと思ったが

それは快斗の手によって阻まれた。

 

「黙っていれば、自分の無能さを棚の上にあげ・・若旦那に盾突くなど。

いい加減にしろよ、クソガキ。」

 

「な、な。たかだか手代が・・。」

 

「そんなおまえは、その手代風情に何の正論も言い訳できない跡取りだけどな。」

 

言葉と共に三つ物屋の跡取りの襟元を掴み、ぐいっと片手で持ち上げる。

とんでもない快斗の腕力にグエっと男が声にもならぬ声を上げたのと、

新一の怒声が響いたのは同時刻だった。

 

 

 

「ああ。あの馬鹿息子の件ですか。あれから若旦那が寝込んで大変でしたよね。

 あちらの親御さんも豪勢な着物を持って詫びに来られましたが。

 若旦那もまだ苛立っておられるようでしたら、私が・・。」

 

「違う。俺が言いたいのは、もうちょっと周囲にも気を使えってことだ。

 はっきり言っていいことと悪いことがあることくらい、分かるだろ?」

 

額に手をあててため息をつけば、「やはりご気分が?」と差し出されたのは薬湯で。

そうじゃないと、新一は力なくそれを押し返す。

 

「商売の時は弁えています。あの時は幸い誰もいませんでしたし、ね。

 それに薬種問屋、廻船問屋のどちらも繁盛していただかないと

若旦那の暮らし向きに関わりますから。」

 

「なぁ、快斗。おまえの考えの基準を俺からたまには外せないのか?」

 

いつも快斗が口にするのは、若旦那のため。

彼のためになるならば人が死んだとしても構わないと思っているほどに。

 

目暮の親分がもってくる事件も、彼の暇つぶしになればとしか感じていないのだ。

それはとても明確な基準であり、一種の危うさも含んでいる。

そのことが、新一には気がかりだった。

 

「私・・いや俺は、新一の世話を任された身。と同時に新一を守ることは俺の意思でもある。

 いかに新一が言おうとも、俺は自分の意志を貫いていくと決めたんだ。」

 

久しぶりに聞いた敬語でない言葉。

そして、呼ばれた名。

 

けれど、新一が感じたのは、寂しさだった。

 

ずっと名で呼ばれたいと言っていたはずなのに。

 

「快斗・・・。」

「出しゃばった事を言いました。それではこちらを飲んでお休みください。また後で参ります。」

 

頭をそっと撫でて快斗は部屋を後にした。

 

 

 

夏が近づくと、路面に水溜りが出来ているように見えることがある。

気温差による蜃気楼は、逃げ水と呼ばれ、何度みても不思議なものだ。

 

新一は快斗の心を逃げ水のように感じた。

遠くからははっきりと見える気がするのに、近づけばそれを疑うほどにあっけなく消えてしまう。

 

自分のためと告げる彼の真意はどこなのか。

自分に向ける愛情の種類は何なのか。

 

そんなことを考えているうちに、新一はゆっくりとまどろみの中に沈んでいく。