若草色の着物を粋に着こなした青年は川のほとりをのんびりと歩いていた。 秋風が川沿いにある柳を揺らし、店の暖簾をゆらし、青年の袖をゆらす。 その冷たい風に小さく咳を漏らすと、彼はそれと同時に苦笑を漏らした。 「今日は1人でよかった。あいつらに聞かれたらすぐに布団いきだし。」 小さく呟いた独り言は、人々の活気の中にすぐに溶け込んでしまう。 日本橋界隈の商いはこの日の本では一番の賑やかさを誇っているのだ。 現に青年の父親の店も、その象徴とも言えるほどに大店であった。 ―解せぬとしても― 長崎屋と聞けば、その名を知らないものなどいない。 廻船問屋と薬種問屋の店の繁盛振りも、下手人の数も、おそらくは上位に食い込むだろう。 そしてその店の名と同じくらい有名なのが、そこの一粒種の体の弱さであった。 朝は元気でも夕方には風邪をひく。病気を拾う才能がある。とも言われるほどに。 元気に起きるだけで、彼らの周囲は盆と正月が一度にきたほどに喜ぶのだから 本人としては少々窮屈に思うことも多かった。 もちろんそれだけ愛されているという自覚はあるし、感謝もしている。 でも、たまに、こうして一人にもなりたくなるのだ。 「今ごろ、白馬は大丈夫かな?」 身代わりに布団に押し込めてきた屏のつくも神を思い出し、少しだけ剣呑な表情をつくる。 だが、それも、読み本の暖簾を見つけてしまえば、すぐに忘れてしまうほど。 今日は新作の本が入ると、読み本屋の亭主から聞いていた。 「さっさと買って帰らないと、白馬が薪にされちまうし。」 今は走れば転ぶと嗜める手代たちはいない。 長崎屋の若だんな、新一はこれ幸いにと足を速め、店の中に消えていくのだった。 どうしてこんなことになったのだろう。 新一は目の前にえらそうに立つ男を見上げて内心でため息をつく。 バテレンから届いたという本を手に、嬉々と帰っていた道すがら うっかりとぶつかってしまったとたん、すごい形相で裏路地へと連れ込まれた。 すみませんと謝っても男は品定めをするように視線を這わせるだけだ。 「あの。本当に申し訳ありません。」 「ふんっ。そんなお高そうな着物を着て、どこかのお坊ちゃんだろ。」 男の下品な笑みに新一は視線を少しだけずらす。 難癖をつけて金品を脅し取ろうという魂胆がダダ漏れだ。 そんな新一の態度を生意気と取ったのか、男は着物の襟元を掴む。 もともと強くない心の臓を持っている新一は、ギリッと軽い痛みを覚えた。 まずいな。気が遠くなりそうだ。 己の身体の弱さを恨んだことは一度ではない。 もっと強ければ、店の者を不安にさせることも、立派な跡取りになることも 好きな本を好きなだけ読むことも、謎解きにでかけることもできるというのに。 調査隊のように動いてくれる妖たちには感謝しているし、彼らのおかげで毎日が楽しい。 それでも望まずにはいられないのだ。 目の前の下衆を殴り飛ばせるだけの体力を。 「ん?よくみれば、綺麗な顔じゃねぇか。」 「当たり前。有名な二枚目役者よりずっと端正な顔つきなんでね。うちの若旦那は。」 男の声に第三者の声が混じったかと思った瞬間。 鼻先まで近づいていた顔は一瞬にして視界から消えた。 その荒業に恐る恐る視線を動かすと、腕を組んだ細身の男が涼しげな表情で佇んでいる。 「探しましたよ。若旦那。」 「快斗・・・。」 「お怪我はございませんね?」 そういうとひょいっと新一を持ち上げて、隅々まで怪我の有無を確認し始める。 大の男が同じ年齢のそれも同じ体格の男に持ち上げられて気分がいいはずもない。 「ちょっ。やめろって。」 「いいえ。ちゃんと確認するまでダメです。」 程なくして地面に降ろされると新一はホッとため息をついた。 「さて。あの下衆をいかがしましょう。」 「もう、放っておけよ。」 「なるほど。それでは富士の山か利根川あたりがよろしいかと。」 にこりと笑う快斗の目は冗談を言っている風には見えない。 いや、もちろんこの手代は本気だ。 若旦那がこの世で一番大切で、それ以上もそれ以下も無いと豪語する手代の1人が 目の前でその大切な彼を傷つけられそうになっているのを見逃せるはずも無いのだから。 「快斗。今日は勘弁してやってくれ。現にもう気を失っている。」 「若旦那がそう仰るならしかたありませんね。」 快斗は不服そうにため息をつくと、男の腹をもう一度蹴飛ばして 新一の乱れた襟元を素早く正した。 「さて、お説教は後です。今日は毛利屋の蘭さんがいらっしゃいますし。 あまり外に居ては、病をひろいかねませんから。」 「蘭が?」 「ええ。新作のお菓子ができたそうで。ちゃんと胃の腑に効く薬も調合させております。」 「快斗・・・それは失礼じゃないか?」 「何がですが?」 人とは感覚のずれた妖しに、新一は何でもないと軽く首を振る。 彼らに人の常識は通じないのだ。 「少しはおいしい菓子が作れたかな・・・。」 「それは無理なことでしょう。」 「だから・・まぁ、いいや。」 和菓子屋の跡取り娘である幼馴染の菓子作りが上手とは決していえないけれど。 日々、努力していることだけは認めてやれないのだろうか。 隣を歩く快斗をそんな視線で見上げると、快斗は軽く眉を動かした。 「お疲れですか?なんなら、辻籠を。」 「家まで歩いて寸の間の距離に籠を頼む馬鹿はいないだろ・・・。」 気づかなくていいことには気づくくせに、肝心なことには気づかない彼。 「しかし、ひどくお疲れですよ。」 「誰のせいだよ。誰の。」 「まさか、先ほどの下衆ですか!?やはり、殺しておけば・・・。」 「違うからっ!!」 そんなやり取りを繰り広げる2人に、大型犬が自分も混ぜろとやってくるのは この数分の後のことであった。 |