快斗の母は気が気でなかった。 時折立ち上がっては時計を眺め、手をせわしく動かし、思い出したように台所へと向かう。 そして、コーヒーを入れて戻ってくると再び席に着き、ただ付けているだけのテレビを眺めた。 ―あかつき― 青子と会ったのは昨日の10時過ぎ。 快斗が居なくて暇だからととなりに遊びに来ていた快斗の母は 幼なじみが帰ったことに、自分の息子も帰っただろうと席を立った。 そのとき、青子は“あっ”と慌てて彼女を呼び止める。 『おばさん。快斗なら、まだですよ。』 『え?あの子、青子ちゃんを送らなかったの?』 突然の雨で浴衣が濡れてしまっている少女を独りこんな暗闇の中帰らせたのかと 快斗の母は申し訳なさそうに青子をみる。 それに青子は軽く首を振って柔らかに微笑んだ。 『私は白馬君に送ってもらったんです。』 『そう。それで、家の馬鹿息子は?』 『工藤さんと一緒だと思いますよ。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな。』 青子のそう告げたときの表情を思い出すだけで、嫌な不安を彼女は覚えた。 ずっと、いつか娘になると思っていた隣人の女の子。 だけれど、それが変わろうとしている・・・そんな予感を垣間見たのだ。 青子は気がついている。 例えそのときの記憶が無くとも、今日一日の快斗の言動によって。 快斗は青子が知っているとわかり、それに立ち直ったとも思いこんでいるから 遠慮せずに“好意”を表すようになったのだ。 もちろん、いつも気にかけて見ている青子にだから分かるほどの。 だが、それは快斗の母親とて同じ。 息子の気持ちの変化など先日のやりとりで分かっていた。 再び時計を見上げれば、昼の1時を回ったところ。 快斗が連絡無しで朝帰りなんて今まで無かったことだ。 夜の仕事をする以外に・・・。 「快斗・・。」 「どうしかしたのか?母さん。」 小さく漏れた声に返ってくるはずのない返事。 見れば一人息子が不思議そうにリビングの扉口に立っていた。 「連絡もしないから心配したのよ。」 「悪い悪い。友達が気分悪くしてたから、急いで近くのホテルに泊まったんだ。」 手荷物をイスの上に置き、快斗は冷蔵庫から麦茶を取り出す。 そのまま近くにあったグラスに麦茶を注いでキュッと飲み干した。 「友達って・・工藤さん?」 探るような声でなく、茶化すような声を彼女は努めて発す。 ここで反対しても快斗が従わないことくらい分かっているから。 「そうだけど、母さんが望んでることなんて何も無かったぜ。」 「あら、男のくせして甲斐性がないのね。」 冗談のように告げると母は“出かけてくる”と付け加えて部屋を後にした。 口元に小さな笑みを浮かべて。 ■□■□■ 突然の訪問客に驚かなかったと言えば嘘になる。 志保は玄関先に立っていた快斗の母を見て目を丸くした。 彼女がここを訪ねてくるのは数カ月ぶりだったから。 「こんにちは、珍しいですね。おばさまがいらっしゃるなんて。」 昨日、知り合いから届いた質のいいお茶を彼女の前に並べながら 志保はそっと彼女の様子を眺めた。 いつもとはとてもかけ離れた気配。 彼女の気配はどちらかというと春に近いと志保は思う。 寒い冬が終わりを告げ、軒先に注ぎ込む柔らかな陽光のように包むような、そんなやわらかい気配。 加えて、春霞のようにぼかして真実を見せまいとするところも。 だけど、今はそのぼかしがきれいに取り払われていて・・・。 それが彼女の本来の姿なのだと志保は思った。 「工藤さんにお話があって。」 「彼女に・・ですか?」 突然の言葉に志保は形のいい表情を歪める。 新一と快斗の母親との接点はたった一度。 それなのに、何の用があるのだというのか・・・ 志保が二の句をつなげないでいたとき、博士と新一の会話が聞こえた。 「こんにちは、いらっしゃると思っていました。」 現れた新一の姿に志保は言葉を失う。 となりに立つ博士は複雑そうな表情で新一の様子をうかがっていた。 そう、彼は完全に男に戻っていたのだ。 女と認識しているはずの快斗の母の前で。 「く、工藤君!!」 「心配しないで宮野さん。私はすべてを知っているの。 彼だって私が来るのを知っていたようにね。 私としては貴方が工藤君の真実を知っていたことの方が驚きよ。」 思わず声を上げる志保を片手で柔らかに制止すると ゆっくりと快斗の母は立ち上がって頭を下げる。 「改めて挨拶をさせていただきます。次期創始殿。」 にっこりと柔らかな笑みで告げられる言葉は、ひどく冷たかった。 ■□■□■ 博士と志保には席を外してもらい、新一は向かい合うようにして彼女の前に座る。 彼女はぼんやりと手を眺めて、先ほどまでのまがまがしい敵意は身を潜めていた。 「ここに来た理由はお察しになっているのでしょう?」 「敬語は止めてください。」 「いいえ。主人もそれで通してきましたから。」 黒羽家の血筋、遺言、そのすべてを小さな体に背負って今日まで生きてきた。 それを止めることなど不可能なことだと彼女は思う。 先日は快斗や志保の手前もあったため、他人の振りをしたが。 「不思議ですね。私が貴方を拝見したのは御幼少のころ。 それでもはっきりと分かるんです。入り嫁の私でさえ。 どれだけ貴方が村にとって大切な方なのか、そして護らなければならない相手なのか。」 「一種の呪いですよ。それは。」 新一に言わせれば、そんなつながりは決して離れられない呪縛。 祖先が何のためにこのような力を生み出し、世間から孤立してきたのかは分からないが 新一はこの関係ほど、忌々しいものはないと思っている。 もちろん、自分の存在も含めて。 「率直に申し上げます。快斗を彼を貴方の言う呪縛に巻き込まないでください。」 初めて視線をあげた彼女の瞳は強くそれでいて儚い。 懇願するようであり脅すようであり、なんとも形容しがたい色彩を放っていると新一は思う。 だが、この瞳の色を的確に表す言葉もまた新一には分かった。 これが、“息子を思う母親”なのだ。 「俺は彼を巻き込みたくはない。」 「それではなぜ、村を出たのですか?快斗に近づいたのですか?」 「それは。それは、快斗の中で目覚めつつあるから・・・。」 「目覚めるとは・・・まさか。」 驚いたような表情の彼女に新一はゆっくりと頷く。 「彼らの刑期が終わる。目覚めれば快斗は莫大な生気を欲するでしょう。」 父に教えられた誰も知らない物語。 黒羽家の追放の事実を知ったのも、それを聞かせられたときだった。 そして、自分はそのとき村を救った男の生まれ変わりだとも。 「初めに言ったとおり快斗を巻き込むつもりはありません。俺に考えがあるんです。」 ですからもう少しだけ時間を下さい。 新一は放心状態の彼女に深々と頭を下げることしかできなかった。 |