朝方の冷たい澄んだ空気の中を着物姿の青年が歩く。

帯には少し大きめの扇をさし、ゆっくりとした物腰で一歩一歩確かめるように。

青年の眼は誰をも圧倒するほどの蒼。

それは海の蒼であり空の蒼であると人々は言う。

 

今彼の目には周りの情景など映ってはいない。

ただ張り付けたような景色が流れていくだけ。

言い換えるならそれほど周りを楽しむほどの余裕もないのだろう。

 

まだ目を覚まして一時間も経たないうちに彼は勤め先の支配人に用事を頼まれた。

知り合いの町火消しの家へ簡単な伝言があるという。

なぜ自分が行かなくてはならないのか、彼には分からない。

だが、間違いなく彼の平穏な生活が崩れ始めるのは

皮肉にもこの日を境にしてからだった。

 

 

〜蝶乃華〜

前編

 

 

め組と掲げられた暖簾をめくり青年は土間に立つ。

朝早いせいか、いつもは若い衆で騒いでいる廊下もシンと静まりかえっていた。

 

「こんにちは。」

 

少し遠慮がちに青年は声をかける。

パタパタと近づいてくる足音。

暫くして黄色の着物に紅の前掛けをした女性が顔を出した。

 

「なんや、工藤さんやないの。悪いんやけど、平次な、今、出かけてるんよ。」

「そっか。支配人に言づてを頼まれたんだけど。和葉ちゃん、これ渡してくれるか?」

 

女の名は和葉。

近所で店を切り盛りしながらも、め組の若い衆の世話も焼く良くできた女房だ。

平次とは2年前に夫婦関係となり、未だに評判のおしどり夫婦でもある。

 

青年こと、工藤新一は胸元から手紙を取り出すと和葉に手渡した。

 

「それじゃあ、俺はこれで。」

「なんや、時間ないん?」

「いや、そういうわけじゃ・・・。」

「ならお茶でも飲んでいって。駿河から良いお茶貰ってん。」

 

な?とかわいらしく微笑んで彼女は新一の手を引く。

新一は特に用事もないからいいかと下駄を脱いでお邪魔するのだった。

 

 

 

 

 

 

「帰ったで〜って・・・・なんやお迎え無しか?」

「お頭の威厳、無くなったんじゃねーの?」

 

町火消しの頭取とも名高い服部平次の隣で彼の友人こと黒羽快斗はクスクスと笑う。

それに平次はムッと眉をひそめながらも再び声を上げた。

 

いつもならば嫁の和葉か、

少なくとも愛弟子である若い衆の数名は迎えに来ると言うのに。

だが、いくら待っても人は来ず、平次は軽くため息をつきながら

とりあえず客人でもある快斗を居間へと案内した。

 

黒光りする良く磨かれた廊下を進み平次と快斗は障子の前に立つ。

そしてゆっくりとそれを開けると

 

 

「騒がしい思たら、やっぱ工藤が来とったんやな。」

 

後ろ手で障子を閉めながら平次は“これなら誰も来んはずや”と

納得したようにため息をつく。

目の前に群がるように新一を囲んでいるのはめ組の若い衆。

誰もが鼻の下を伸ばしたようなふぬけ顔で、

少しでも新一と話そうと機会をうかがっていた。

 

「お頭、お帰りでしたか!!」

「す、すみません。」

「ええよ。工藤がおったら誰でもそうなるしな。」

 

慌てて頭を下げる弟子たちに平次は人の良さそうな笑みを浮かべる。

その言葉に和葉はクスクスと笑った。

 

「平次、よう分かっとるやないの。」

「わいかて、工藤が来とったらそうなるで。」

「あのなぁ・・・。」

 

彼ら夫婦の言葉に新一は所在なさげにポリポリとこめかみを掻く。

そうして新一はゆっくりと視線を平次に向け・・・その後ろに立つ人物をそっと見つめた

 

もちろん気配から彼が人を連れて入ってきたのは知っていた。

そしてその気配の持ち主も・・・。

 

「服部。そちらが友人の方か?」

気遣うように声をかけると平次は慌てて“忘れとった”と振り返る。

その反応はさすがにないだろうと後ろに立たされた快斗は乾いた笑みを浮かべた。

 

 

「黒羽快斗。ちょっとした幼なじみやな。」

「初めまして。」

 

快斗は一歩前に踏み出すと右手を差し出す。新一はそんな彼の言葉に少しだけ

表情を曇らせたものの、すぐに笑顔になって握手を交わした。

 

「工藤新一です。初めまして、黒羽さん。」

 

重なる手から伝わる体温は子供のように暖かい。

新一はどちらかというと低体温なのでその違いは歴然としていた。

まるで何かが、快斗には新一の冷気が新一には快斗の暖気が

お互いに交換されたようなそんな不思議な感覚まで催すほどに。

 

快斗は暫く新一の手を離せなかった。

初めましてと挨拶したはずなのに、

この温度のやりとりを自分は知っている気がするのだ。

ずっと、もっと昔から、手だけでなく・・・全身でのやりとりを。

 

快斗はそこまで考えて軽く頭を振る。

どう考えても彼とは初対面なのだと言い聞かせて。

 

「黒羽さん?」

「あ、いや。快斗でいいよ。おれも新一って呼ぶから。」

 

快斗は手を放していないことに気がついて軽くわびながら呼称の訂正を示唆する。

それに新一は軽く微笑んでそして首を横に振った。

 

 

「黒羽って呼んでいいか?俺のことは新一でもかまわないけど。」

「新一が呼びやすい方でかまわないよ。」

「悪いな。」

 

それから若い衆は朝の訓練にかかり、4人はしばらくのんびりと雑談に花を咲かせた。

とは言っても、和葉と平次の痴話喧嘩が大半を占めたのだが。

 

 

 

 

「工藤さん。奉行所の方から御文です。」

 

笑い声が混じる中遠慮がちに開かれた障子。

軽く頭を下げて入ってきた男の手には速達の文が握られていた。

 

「相変わらず忙しそうやな。」

 

文を受け取り眉をしかめた新一の表情に平次は軽くため息をつく。

それを快斗は不思議そうに眺めていた。

 

「新一って奉行所勤めか?」

「いや。個人的に事件の解決に協力してるんだ。まぁ、単なる謎が好きなんだけど。」

 

文を袖もとにしまって新一は席を立つ。

そして3人に別れを告げると颯爽と部屋を出ていった。

 

 

 

残された3人は暫く閉じられた障子を眺めていた。

昼も近くなったのか、外からは子供の声が聞こえてくる。

あとは寒々しく吹く木枯らしの音くらいだ。

 

「さて、ほんならそろそろ仕事に戻るとするか。黒羽、おまえはどうする?」

「そろそろ帰るよ。外に真を待たせてあるし。」

「なんや、京極さん来てるんなら連れてこればええのに。」

 

和葉は快斗の言葉に慌てたような声を上げた。

この寒空の中数時間も待たせているなんてと、不憫に思ったのだろう。

だが平次は非難がましい和葉の言葉をやんわりと片手で征する。

 

「主君に使える者がそんくらいを嫌がることないやろ。

 まぁ黒羽は従者思いのやつやし

 外におる言うことは、黒羽が誘っても来んかったちゅうことやな。

 おおかた、黒羽が庶民に完全に戻れるよう配慮したんちゃうか?」

 

「ご名答。平次も奉行所につとめればいいのに。」

 

傍にあった折り菓子を懐に忍ばせて快斗は席を立つ。

おそらく京極の分にと食べなかったのだろう。

 

 

平次は快斗の軽い提案にとんでもないと頭を振った。

 

 

「町を守るんは火消しも同じや。」

 

「そや。黒羽君。結婚決まったんやて?城下町中、その話題でもちきりなんよ。」

「あ。まぁ。」

 

「おめでと。なんでも陛下の近縁にあたる御方なんやてね。これなら将軍家も安泰や。」

「和葉、黒羽はそのことでいろいろ悩んでんねん。あんまり首突っ込むな。」

 

呆れたような平次の声に“堪忍”と和葉はおしゃべり癖が出てしまったことをわびる。

快斗はそんな萎れた和葉の頭をぽんぽんと軽く叩いて、にこりと微笑んだ。

 

「いいよ、それじゃあまたな。」

 

 

 

 

 

快斗が部屋を出る少し前、新一は渦中の人、京極真と顔を合わせていた。

暖簾をあげた先の壁に目をつぶってぴくりとも動かない武士。

そんな彼が新一の草履が地面を踏む音にそっと目を開ける。

 

男は近眼らしく西洋から入った眼鏡をかけていた。

今の時代には珍しい代物だが男にはまるで

それが生まれたときからついていたようにとても似合っている。

そしてこれほど眼鏡が似合う男を新一は2人知っていた。

 

自分の主治医の師である、療養所の新手と・・・・。

 

「久しぶりですね。京極さん。」

 

男は新一の姿を目に留めてその眼鏡の奥の眼をこれ以上もないほど見開く。

 

「蒼姫・・・。」

「その名前を聞くのも久しぶりだな。」

 

ゆっくりと真は新一へと近づきその身なりをじっくりと見つめる。

新一は心配している彼の様子に相変わらずだと笑った。

 

「ご無事でしたか。」

「ああ。なんとかやってるよ。」

「若君とはお会いに?」

「・・・・初めましてってさ。」

 

真は新一のその言葉に辛そうに視線を地面へと落とす。

 

「すみません。私にもっと力があれば。」

 

「京極さんの気にする事じゃない。俺はあいつが元気そうだって分かっただけで満足だよ。

 今後はあいつに会うなんてミスが起こらないように気を付けるから心配しないでくれ。」

 

彼の肩を軽く叩いて新一はスッと体を桟橋のかかる道の方へ向けた。

真はその動きに慌てて顔をあげる。

 

 

「・・・蒼姫っ。若君はあの瞬間まで貴方のことを、いえきっと今も・・・。」

「もういいんだよ。すべては3年前に決まったことなんだぜ。」

 

振り返って微笑む彼を止めることのできる言葉を真は知らない。

ただ彼にできたことは押し寄せる後悔の念を心の奥に封じ込めることだけ・・・。

普段に戻らなければいけない。若君が近づいてくる気配を感じる。

 

「真?」

「お待ちしておりました若君。」

 

桟橋に向けた視線を命を懸けて守ると誓った主君に向けて真は深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 

 

「ここでかまいませんよ。」

「そうかい?それじゃあ工藤君。気を付けてね。もう日も暮れてしまったから。」

 

「高木さんも。たまには遊びに来てくださいよ。」

「はは。僕、苦手だからなぁ。それに・・・。」

「分かってますよ。佐藤さん一筋ですしね。」

 

冗談です。と付け加えて新一は高木から小さなつつみを受け取る。

今し方話題に出た佐藤から和菓子を貰ったのだ。

なんでも親戚から大量に送ってきたらしい。

ちなみに佐藤は高木の婚約者である町娘だ。その気性の強さで

パトロール警官的役職である定町廻り同心の強力な助っ人でもあった。

もし、女性も働けるのなら間違いなく出世していたとは、彼の上司であり

町奉行所でもあり、庶民からお奉行様と慕われている目暮之守の見解だ。

 

「ありがとう。工藤君。」

 

去っていく高木の言葉に一礼して新一はスッと目を閉じる。

 

「帰るか。」

再び目を開けた先。

そこに広がるのは女たちの戦いの場所。

この城下町でもっとも卑しいとされ、また男たちには黄泉の国とも言われる花魁街。

 

この場所こそが、今自分を守ってくれる唯一の場所。

3年前に追放されてからの・・・。