依頼もなかったので急遽、思いつきで事務所を定休日にしたある午後

新一は目の前のブラウン管を眺めながらニヤリと口元を歪めた。

そして、慌てて手帳を鞄から取り出し先の予定を確認する。

予想通り、大した事件以来も入っていなく、新一はさらに目元まで綻ばせた。

ふと絨毯を見れば、マジックをして遊んでいる5歳の双子。

奥のソファーの上では、彼らより2つ年下の双子が

楽しそうに推理小説を読みふけっている。

ちなみにそれはルビ無しの大人向けのものなのだが。

 

子供たちは新一の視線を感じたのか小首を傾げる。

「おもしろいこと、思いついた。」

ニコッと子供たちに笑いかけて新一は傍にあったメモ用紙に走り書きをした。

 

実家に帰らせていただきます

 

とだけ。

 

 

 

―実家に帰らせて頂きます・前編―

 

 

 

荷物をまとめて、雅斗と由佳に弟妹を連れて

付いてくるようにきちんと言いつけて、隣へと向かった。

平日にも関わらず、予想通り目的の人物はご在宅で、

新一は事の成り行きが予定どおりに進むとご満悦になる。

 

だが、チャイムをならされて出てきた哀は、

目の前のうきうきした彼の様子に軽い頭痛を感じることしかできなかった。

 

 

「で、どうしたの?その大荷物。実家にでも帰る気?」

 

呆れてものを言う哀に新一は苦笑を漏らしながら大きく頷く。

 

「よく分かったな。ちょっとテレビで見てさ。やってみたくなったんだ。

 実家に帰らせていただきます。ってやつ。」

 

新一の言葉に哀の頭痛はますます増大していく。

いったいどこの世にやってみたくて実家に帰る嫁がいるだろうか。

それに、あんな心配性で嫁命の男を放り出すなんて、

残された側の人間の立場も考えて欲しい。

 

哀はつれつれとそんな思いを巡らせるが、目の前でお茶を飲む新一は楽しそうで

もはや止めるのは不可能と分かり切っていた。

 

「実家って、ご両親のところに?子供4人もつれて?」

 

「まぁ、どうにかなるだろ。雅斗も由佳もある程度のことできるし。

 飛行機ではおとなしくしてくれるだろうから。あと両親も会いたがってるだろ。

 だから子供は両親に任せてたまには育児ものんびり休みたいとも思ってさ。」

 

新一はそう言うと膝の上に座っている雅斗の柔らかな髪を撫でる。

そして、な?と小さな瞳をのぞき込んでにっこりと笑った。

 

雅斗はそんな新一の表情に大きく頷いてポフッと甘えるように抱きつく。

それを見て、ヤキモチを妬いたのか、由佳も負けじと新一の膝に飛び乗った。

 

「育児ね。いつも私がしてるとも思えるけど。」

 

子供たちの小さな争いをほほえましく眺めながら哀は軽く毒づく。

もちろん好きでやっているのだから文句など無い。

ただ、その光景のなかに自分も浸透したかったのだ。

ささやかな言葉と共に。

 

「だから、灰原も実験に専念できるように2週間くらい行ってくる。

 快斗には俺があっちに向かった理由が分かったら迎えに来いって伝えて欲しい。」

 

「やりたかったから。なんて理由、彼に思いつけるのかしら?」

 

「さぁ?とにかくあとは頼んだぜ。」

 

お茶ごちそうさま。と告げると新一はスタスタと旅行鞄をもって歩き始める。

そして呼んであったタクシーに子供たちを乗せた。

 

「それじゃあ、気を付けてね。」

「おう。」

 

去っていくタクシーを見送りながら哀は再びため息を付く。

あと数時間で帰ってくる隣の旦那の騒ぎようを思い浮かべながら。

 

 

 

 

黒羽快斗は今日も今日とてマジックショーを大成功させ、

スタッフの飲み会も断って、嬉々とした様子で自宅に戻ってきた。

動き盛りの子供たちと遊ぶのは楽しく、それが終わった後、

大好きな奥様とベットで夫婦の営みをすることは一番の祝福の時間。

明日は土曜日だからたっぷりと堪能できるだろうと

快斗は妄想をふくらませて厭らしい笑みを作る。

 

そんな顔を全国の、いや全世界のファンが見たら思わず我が目を疑うほどの。

 

 

「まずは、悠斗と由梨にたち歩きをさせて、雅斗と由佳とお風呂にはいるだろ〜♪

 新一も一緒に入れればいいけど、絶対断るし。まぁ、そこは夜の楽しみで・・。」

 

スキップしそうな足取りで、門をくぐって扉を開ける。

そしてその異様な雰囲気に快斗の能天気な思考は破壊されるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「哀ちゃーーーーん!!!」

 

扉が壊れるわ。

哀は予想通りの訪問客に深いため息を付く。

そして、博士にお茶を準備するよう頼んで玄関へと向かった。

 

「哀ちゃん、し、し、新一が!!!」

「近所迷惑だから中に入って話しなさい。」

 

手に紙切れを持った快斗に哀は冷たくぴしゃりと言い放った。

 

カフェオレを飲んでも、快斗は書き置きを握りしめたままで

今にも泣きそうな表情を作っている。

これが数年前まで世間を騒がせていた大怪盗で、

今は世界中の女を虜にしているマジシャンかと思うと

哀は世界の価値観を疑いたくなる。

 

だが、それは仕方がないこと。彼の中心部が急に消えたのだから。

 

「黒羽君。詳しいことは彼から聞いているわ。」

「・・・新一が出ていったの知っていたのか?」

 

突然彼の群青色の瞳に怒りが宿る。

哀は八つ当たりはゴメンよとばかりに急いで次の言葉をつづった。

 

「私に当たっても無駄よ。工藤君はこういったわ。

 どうして実家に帰らなくては行けなくなったか、分かったら迎えに来いと。

 それが正解だったらすぐに戻ってくるってね。身に覚えはないの?」

 

途端に考え込む快斗。

彼の優秀な頭脳がおそらくフル起動しているに違いない。

 

哀は考えるだけ無駄・・と思いながらも一方で悩むだけ悩めばいいと思った。

これほど頭を使う彼を見るのは珍しいのだから。

 

「じゃあ、がんばって。怪盗さん?」

 

哀はそう告げると実験を再開すべく地下へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい新ちゃん。待ってたわ♪」

 

久しぶりに訪れた両親の家は、少しだけリフォームされていて

以前よりも豪勢なものになっていた。

入り口にはアジアンテイストの金の象が高々と鼻をあげている。

 

「ただいま。ほら、おまえらも。」

「「「「こんにちは、有希子さん」」」」

 

声をそろえて挨拶する孫たちに自然と有希子の表情も和んでいく。

 

「はい、いらっしゃい。我が家の天使さんたち。」

 

膝をついてすべての子にキスをするとスキップしそうな足取りで

子供たちを奥の部屋へと案内する。

やはり数カ月ぶりに戻ったのは良かったな。と母親の姿を見ながら新一は思った。

 

玄関で荷物の整理をしていると、階段から足音が聞こえる。

ふと顔をあげれば“おや?”と驚いたような表情をわずかに見せた父親が居た。

 

「新一、今日、帰ってくるんだったか?」

「俺、母さんに連絡したけど?」

 

「優作には伝えてなかったのよ。だって、そんなことしたら

原稿ほったらかして雅斗たちの為にいろいろ買いそろえるでしょ?」

 

優作の声に有希子が応接間から顔を出してにっこりと告げる。

それにハハッと優作は苦笑を漏らし、こめかみを掻いた。

 

「まったく、そう言う君だってその手荷物はなんだい?」

 

「これ?これは私からのプレゼントよん♪」

 

どうやら階段したにある物置にプレゼントを取りに来たらしい。

有希子の腕の中には大きなラッピングされた袋が握られていた。

 

「どれ。私もかわいい孫たちと遊ぶかな。」

「あら、原稿は?」

「そんなのどうでもなるさ。」

 

優作の言葉を有希子は甘受しつつも

子供たちを独占できなかったことに不満なのか少しだけ頬を膨らませる。

そんな変わらぬ両親を新一はおだやかな表情で眺めるのだった。

 

 

 

 

 

それから1週間、日本では快斗が悩みに悩んでいた。

いくら考えても新一が実家に戻る理由が思いつかないのだ。

神に誓っても浮気などしていないし、彼を怒らせるようなことをした覚えもない。

第一、あの日は新刊が出たとかで機嫌はむしろよかったはずだ。

 

「新一〜」

 

独り近所の喫茶店で、お世辞にも美味しいとは言えないケーキを食べる。

いや、ここのケーキは美味しいのだが、今の彼に味覚はなかった。

 

哀はここ数日彼の観察記録を付けていて、彼女に言わせれば味覚の喪失は、

新一禁断症状、レベル3なのだとか。

 

「黒羽君。どうしたの、覇気がないわよ?」

 

パシンとメニュー表で頭を叩かれて、誰だよ?と快斗はその主を睨み付ける。

 

「怖っ。本当にどうしたのよ。」

 

急に睨み付けられた相手はわざと震える仕草をして、

許可もしていないのに合い席になると、

傍を通ったウェイターにケーキセットを注文した。

 

「どうしてここに居るんだよ。須藤。」

 

グレーのスーツを着込んで目の前に座っているのは、大学時代の同級生、須藤。

当時は違法的な行いを嗜んできた彼女も

今は司法試験にも合格して立派な弁護士の仕事に就いている。

 

その証のように彼女の胸元には向日葵を象った

弁護士のバッチがしっかりと存在していた。

 

「ちょっと用事でこっちに来てて、外から情けない黒羽君を見つけて入ったのよ。」

「・・・・情けないは余計だ。」

「で?どうしたの。まさか、由希さんに愛想でも尽かされた?」

 

須藤の問いかけに快斗は特に返事を返すことなく

アイスカフェオレの中でゆれる氷を眺める。

そんな態度の快斗に須藤は自分の言葉に対して肯定したと解釈して目を白黒させた。

 

「何?ひょっとして由希さんを裏切ったんじゃ。」

「そんなはずねーだろ。何年、俺たちを見てるんだよ。」

「そうよね、もしそうだったら、黒羽君生きて帰れないし。」

 

須藤はガラスのグラスについた水滴を細い指でなぞってにこりと微笑む。

とんでもない科白とともに。

 

「で、何があったの?」

 

ここまで来ればもう、話してしまうか。参考になる意見も聞けるかも知れないし。

快斗は興味津々と瞳を輝かせているかつての級友に、事の次第を説明するのだった。

 

「なるほど。そうね〜。由希さんの性格からすれば、

 よっぽど重大なことがあったか、思いつきかのどちらかね。」

 

「思いつき?」

 

「だってそうでしょ。実家に帰るなんてあるいみ嫁としては一大決心よ。

 でも、由希さんなら遊びでやっちゃう気がするわ。」

 

今までのメール内容や、度々外でお茶したときの事を思い出しながら

須藤は“きっとそうよ。”と自分の解釈に満足げに頷く。

だが、快斗としては“まさか”という気持ちが勝って首をひねらせるだけだ。

 

「もし重大なことだったら?」

「重大って、黒羽君は浮気してないんでしょ?」

「万が一、誤解のパターンもあるんじゃないかと思って。」

「へぇ〜。誤解されるような言動でもしたの。」

 

ピシッと握っていたコップにひびが入ったのは気のせいではないはず。

快斗はその音にブンブンと首を振った。

そう言えば彼女は、武道家の娘だったのだと思い出して。

 

「それに、由希さん言ってたわ。私が浮気話の話をしたとき。」

「なんて?」

「黒羽君のこと、疑ったりしないの?って聞いたら。」

 

そこまで言って須藤は何かを思いだしたのか、フフッと含み笑いを作る。

快斗はそんな彼女に先を話すようにと視線で訴えた。

 

「快斗のこと信じてるから。って即答よ。

そのあと、茶化したら顔を真っ赤にしてね。

 もう、すっごくかわいかったんだから!!」

 

「須藤。あんまり俺の奥さんをいじめないでくれる?その表情は俺の特権。」

 

過ぎたことにまで嫉妬する快斗に須藤は“ごちそうさま”とつぶやく。

まったく彼らの熱々ぶりには毎度当てられてばかりだと。

 

「とにかく、私としての意見はここまで。それにしても黒羽君らしくないわね。」

 

「え?」

 

「貴方なら理由が分からなくても速攻で迎えに行くと思ったのに。」

 

須藤の言葉に快斗はハッと息をのむ。

そうだ、いくら哀から伝言されたとはいえ、迎えに行けば良いだけの話。

 

慌てて喫茶店を後にした快斗に須藤は軽く手を振る。

律儀にテーブルに置いていったお茶代を視界の隅にとどめながら。