〜月の桂〜

―2―

 

「遅かったですね。」

「いたのか、KID。」

 

新一は彼らが床に就いたのを確認して、自室へと戻った。

障子を明ければ、月明かりの中、カミサマが居る。

いつもならばこの時間帯、どこぞかに消えてしまっている彼がここに居るのは

ひどく不自然で新一の表情はいぶかしげなものとなった。

そんな新一の表情を楽しむようにKIDは微笑む。

それはもう、神の名がふさわしいばかりの極上の笑みで。

 

「心配だったんですよ。貴方が連れて行かれるのではないかと思って。」

「いつものことだろ。狩の使いが来る事なんて。」

 

何を今更・・・と新一は毒づいてKIDから離れた場所に座る。

それにKIDは気を悪くしたのか、

無理矢理彼の手をひっぱり自分の腕の中に新一を収めた。

 

「今回はいつもと違う気がするんです。」

「カミサマの勘か?」

「まぁ、そんなところですね。」

「んっ。」

 

KIDはようやく新一の瞳に自分自身が映ったことに安堵すると、彼の首元を強く吸い付ける。

その紅い跡は、着物をいくら上手に着ても見える位置にあって・・・

 

「見えるだろ。」

「所有の証です。」

「そんなもの無くたって、俺はここから出ていけない。」

 

KIDを押しのけて、新一は奥の寝室に向かう。

その悔しげな表情にKIDはひどく切なくなった。

 

体は手に入れても・・・心はなかなか手に入らないのですね。

 

人知れず呟いたその言葉は秋風にかき消される。

 

 

翌早朝、鳥のさえずりで新一はいつものように目を覚ました。

この季節になると、起きることさえ億劫になってくる。

新一はまだ暖かい布団にくるまれて、ボーっと天井を見上げた。

随分と古い造りの部屋だが、頑丈な組み方をしてあるらしく、

突き出た梁がその格式深さを物語っている。

 

どれだけの斎宮達の寝顔をお前は見たんだ?

 

新一はそっと目を閉じて、歴史の流れを全身で感じ取ろうとした。

斎宮に任じられる女達は薄幸な者達が多い。

ここを出るときはたいてい結婚適齢期も過ぎ、

時間に取り残された孤独だけが心を占めるという。

この畳に付いているシミもまた彼女たちの涙なのだろうか。

 

「新一様、そろそろ。」

「ああ。」

 

カサッと着物のこすれる音が聞こえたのと同時に、

ふすまの奥から女房(召使い)の声が聞こえる。

狩の使いの朝食の世話と見送り。それが主な朝の仕事だ。

庭の掃除はここにいる坊主達が行うし、食事も女房達が準備する。

そして、斎宮唯一の仕事はここにやってくる客人の手伝い。

もしここにカミサマがいたのなら“カミサマへのご奉仕は?”と

くだらない仕事を1つ付け加えそうだが。

 

「俺にはぴったりの場所だな。」

 

表舞台には立たずとも、ひっそりと誰に邪魔されるわけでもなく過ごせる地位。

それでもひどく心が寂しいのは何故だろう。

 

新一は髪を柘植の櫛でとかし、人前に出るのにふさわしい着物を羽織る。

そして、仕上げに庭の井戸水を汲んで顔を洗えば準備は万全だ。

 

ふすまを開けた先には長い縁側が姿を見せる。

よほど今朝は冷えたのだろう、辺り一面に霧が立ちこめていた。

新一は備え付けてある草履に足をとおし、すぐ前にある井戸のつるに手をかける。

その瞬間、その手に誰かの手が重なった。

 

 

「何してるの?新一。」

「・・・快斗。」

「昨日は少し寂しかったんだけど。」

「しょうがないだろ。オレ達の関係はオレ達以外知らないんだから。」

 

冷えた手を暖かく包む彼の手。白くて長い指は出会った頃と全く変わらない。

 

「誰かに見られたらどうするんだ。ここは立入禁止のはずだ。」

「その時はその時。・・・新一と話がしたいんだ。」

 

トーンを落として耳元でささやかれる声。

その言い方に新一が弱いことを快斗は知っている。

 

「・・・・今夜、自分の部屋で待ってろ。」

「直々に会いに来てくれるの?」

「頃合いを見計らっていくから。」

 

新一はそう言って、快斗の手を振り払った。

本当はいつまでも握っていたかったけれど、それは許されない。

 

なぜなら、どこにカミサマがいるかは分からないから。

かつて無理に寝室に押し入った男は彼に殺された。

一瞬の神業で、消し去った。そう、それは奇術のように。

その時からカミサマは新一にとって恐怖の対象になったのだ。

 

「カミサマが怖い?」

「早く行け。」

水で顔を洗うと、新一はようやく快斗に視線を合わせる。

冷たい水をすくった手からうっすらと蒸気が上がっていた。

 

すがるような新一の瞳に、快斗は渋々その場を立ち去る。

今宵の約束で己を納得させながら。

 

 

月が雲に隠れ、庭に一時の闇が舞い降りたとき、新一は部屋を出た。

 

「どこに行かれるのです?」

「志保か。」

 

後ろから、かけられた声に、新一はびくりと体を硬直させる。

だが、それが幼いときから身の回りの世話をしてくれている

女房の志保だと分かると一気に肩の力を抜いた。

志保は新一の傍に近寄ることなく、長廊下からこちらをジッと見ている。

 

「こちらのことはお任せ下さい。」

「志保?」

「はやくお行き下さいませ。月が庭を照らします。」

 

暗闇の中で志保の表情は垣間見ることさえできなかったが、

それでもその声質から、

彼女がおだやかな表情をしていることは新一には手に取るように分かった。

新一は軽く頭を下げて、急いで隣の棟へと向かう。

そう、狩の使いようとして母屋から離れた場所にある快斗と白馬のいる別棟へ。

快斗は新一を心待ちにしながら、床に伏せていた。

いろいろ話したいことがある。ずっと胸の奥に溜めてきた言葉。

そのあふれ出る全てを、彼に伝えたい。

 

「新一。」

月明かりに照らされはじめた庭に、軽装の白衣を着た新一が立っていた。

走ってきたのだろうか?その息は若干乱れている。

快斗は顔をほころばせながら、彼を部屋へと招き入れた。

そして、その冷たく冷え切った手を今朝同様に優しく包み込む。

 

「新一。話したいことがいっぱいある。」

「俺もだ。」

 

コツンと手と同じくらい冷えきった新一の額に自分の額を当てて、

困ったように快斗は苦笑した。

新一もそんな快斗の表情に、思わず笑みを漏らしてしまう。

その瞬間、お互いに同じ気持ちになれた気がした。

 

「新一が斎宮になったって聞いて、驚いたんだ。俺が側室を迎えてすぐの事だったから。」

「おまえの側室は関係ねーよ。別に、当てつけでここに来た分けじゃないぜ。

 お前が藤原家から家を守るために、政略結婚を行ったことは理解している。

 それに、俺がここに来たのも似たような理由だ。」

 

ゆっくりと顔を離してお互いの視線がしっかりと混じり合う距離を保つ。

真剣な蒼の慧眼がジッと快斗を見つめていた。

ゆるぎないその穏やかな瞳に快斗は話そうと思っていた内容の全てを

忘れてしまった気持ちになる。

それだけ、意志の強い瞳だった。

 

「俺は家なんかよりも、新一が大事だ。」

「じゃあ、俺はここに入って正解だったな。」

「え?」

「おまえの頑張って積み上げてきたものを俺のせいで崩してしまうのは

 俺が許せないんだよ。ここに入れば踏ん切りがつくと思ってた。」

 

自分のことを忘れて、側室の女達をいつか正室へと招き入れ、

幸せな生活を送って欲しい。余生の望みがない自分を選ばないで欲しい。

 

「なのに・・・なんで来るんだよ。」

 

ここにいれば出会うこともないと思っていたのに。

快斗を忘れられると思っていたのに。

 

一滴の涙を落として、新一は逃げるように部屋を後にする。

そんな新一の信じられない言葉に、快斗は唖然として動けずにいたのだった。

 

 

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