「何で今日は行かなかったんですか?」

歩美はあと数時間後にやって来るであろうクライアントの資料を新一に手渡しながら、

不思議そうにそう言葉を漏らす。

新一はそれに対してとくにコメントを返すことなく、前髪を掻き上げた。

 

 

〜永久花・4〜

 

 

歩美はこれ以上聞いても無駄だと悟り、“コーヒーはここに置いておきますね”と

一言付け加えると、接客室のある部屋へと戻る。

新一は歩美の言葉など聞こえていないのか、資料をボーっと眺めている。

 

 

 

 

「もうっ。朝からあの調子なんだから。素直じゃないなぁ、工藤さん。」

歩美は受付室のイスに座って、大きくため息をつく。

そして、ひじをつき、顎を手に乗せるような体勢をとると

受付の窓越しに事務所前の階段を見つめる。

お客が来ないときはこのような体勢でいるのが常だった。

今日のクライアントは確か40代の男性だったかな?

歩美はイスにかけてあった、桜色のカーディガンを羽織って、

机の上に置いてある予備の資料を手に取る。

そこには、男についての経歴と顔写真が貼ってあって、一見すれば履歴書のようにも見える。

特にすることもなかったので、歩美はその資料に目を通しはじめた。

 

依頼内容は“浮気調査”

「工藤さんが一番嫌う依頼よね。」

ターゲットは確定していて、それも行動時間も限られてくるのだから、

捜査としては楽な部類にはいるのだが、

人間心理とも密接に関わってくるこの仕事は精神的にキツイ。

最後に浮気の報告をするときなどは、まさに一種の修羅場だ。

 

泣き崩れるか、怒りを報告者である新一にぶつけるか、慰謝料について相談をはじめるか

たいてい浮気調査の報告を聞いた者達はこのいづれかの反応を示す。

そして、今日はその調査申告の日でもあった。

 

「趣味は家庭菜園。職業は主夫業。奥さんが1人で政経をたててるんだ。だから、浮気ね」

 

写真は薄幸そうな表情をありありと強調させていて、歩美はその男を可愛そうだと思う。

気は優しく、愛想がいいと近所では評判の旦那なのだと、

新一から一度聞いたことがあった。

なんでも持病の腰痛で、職につけないだとか。

 

「まだ、結果は聞いてないけど、たぶん浮気は真実だよね。」

今日の報告に使う写真が入っているであろう茶封筒を視界に止めて、歩美は再び外を見る。

 

猫背姿の男がちょうど階段をのぼっている姿が視界に入ったのは

それからしばらくしての事だった。

 

 

「残念ながらお察しの通り・・・奥様は浮気をなされていました。」

「はい。」

新一の言葉に男は黙って頷いて、茶封筒の中の写真を見つめる。

旦那の前では見せたことのないような、妻の笑顔がそこにはあった。

歩美はお茶を出しながら、男の表情を盗み見る。

よくある3タイプではない、おだやかな表情が逆に不気味だった。

 

「ありがとうございました。妻が幸せそうなら良いんです。

 なにぶん養って貰っている身なので。」

「そうですか。」

「こちらは依頼料です。本当にお世話になりました。」

 

深々と頭を下げて男は階段をくだっていく。

やって来たとおりの背広姿の猫背がひどく寂しく見える。

 

 

 

「工藤さん。どうかしたんですか?」

歩美は男を見送って、部屋に戻ってくると、何か考え込んでいる新一に声をかけた。

顎に手をそえる探偵独特のポーズ。

こういう体勢になるとき、それは真剣な考え事が多い。

 

「いや、なんかあの人、変じゃなかったか?」

「え、ええ。まぁ。」

確かに変に穏やかで動じない彼は普通ではなかった。

「まさか、奥さんを殺したり?」

「分からない。それは無いと思うけど・・・。」

新一は妙な引っかかりを覚えて、さらに眉間にしわを寄せる。

あそこまで穏やかに浮気の報告を聞いたクライアントは初めてだ。

“養われている身なので”そう苦笑した男の顔が頭から離れない。

 

トゥルルル トゥルルル

 

「電話。とってきますね。」

「あ、うん。」

歩美は3回目のコールで、事務所の電話を取る。

電話越しに聞こえてきた声は、変声機を用いた独特の口調だった。

 

「く、工藤さん。」

「変わる。」

歩美が慌てて戻ってきたのを見て、新一は机の子機を手に取った。

嫌がらせの類の電話も珍しくはない。

 

「お電話変わりました。」

『工藤新一か?』

変声機を用いた声が耳元で響く。

そしてその声は、まだ自分がコナンであったときの連続爆破事件を思い起こさせた。

“モリヤテイジ”確かそんな名前の男が犯人だったあの事件は

いつまでも頭にこびりついている。

だが、そんなことよりも、自分が工藤新一であるのかと確かめてくる内容こそが

新一にとって一番気に掛かった面であった。

 

『今日は息子と夫の晴れ舞台だな。』

「何のことだ?」

『今日のステージでおまえの旦那は血に染まる。旦那の父親と同様に。』

「まさか・・・ジンか?」

ここまでの内容を知っているのなら彼ぐらいしかいない。

だけれど、それならなぜ変声機を用いるのだろうか。

しばらく、電話先の声は沈黙を保っていた。

だが、その後ククッっとのどの奥で笑い、一息置いて声がまた聞こえてくる。

 

『ジンの新しい右腕だ。旦那を助けたいのなら、ステージにおまえも上がれ。』

 

その言葉を最後に電話は切れる。

新一は子機をその場にボトリと落として、部屋を後にした。

 

「工藤さん?」

「事務所を頼む。ちょっと出かけてくるから。」

「えっ、ちょっと待って下さい!!」

鞄とバイクのキーをとって階段を駆け下りる新一を呼び止めるがその声は届かない。

あの電話の後だったせいもあって、歩美の心を不安が埋め尽くした。

 

「どうしよう。」

あれほど慌てた新一を見たのは初めてだ。

電話を手にとって、記憶に鮮明に残っているダイアルを押す。

“何かあったら電話して。”小学校時代からの親友である灰原哀。

彼女は新一の事を誰よりも大事に思っている人間の1人だ。

 

歩美は“早くでて”と思いながら、哀の言葉を思い起こしていた。

 

“吉田さん。工藤君は体が弱いから興奮させたりしたら危ないの。お目付役頼むわね。”

人を頼らない彼女からのその言葉は歩美にとって彼女から信用されているという証でもあった。

だからこそ、この約束は何があっても守りたい。

 

『はい、阿笠です。』

「哀ちゃん、工藤さんが。」

 

歩美は哀の声に全身の緊張がとけていくのを感じた。

 

 

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ステージの控え室に、2人のマジシャンの姿があった。

1人はモノクルで片目を隠し、黒のスーツに身を纏い、

1人は白のコートを着こなしている。

前者のマジシャンの名は黒羽雅斗。その顔を観客にお目見えしたことは無い。

つまり、実力のみで名をはせてきたマジシャンだ。

後者はマジック界の貴公子、黒羽快斗。

その華麗な技の数々でデビュー以来、不動の首位を走り続ける天才マジシャンだ。

 

「お客さんは驚くかな?」

「多分な。凄い騒ぎだぜ。」

親子でありながらも、笑いあっている様子は、どちらかというと兄弟の様な雰囲気だ。

お互いの最終確認も終わり、あとは時間が来るのを待つだけ。

 

「緊張するか?」

「まぁね。でも、興奮のほうがでかいよ。」

挑戦的な笑みを向けてくる快斗に雅斗も負けないくらい強気な笑みを返す。

今日はライバルとしてでなく親子としてステージに立つ。

それも一生の思い出となるであろう舞台だ。

 

雅斗はそんな事を思いながら、隣で白い手袋をはめる快斗を盗み見る。

そして、ほんの僅かな違和感を感じた。

いつものポーカーフェイスに覆いきれない何かがその表情には浮き出ていたから。

 

「どうかした?父さん。」

「・・・なんか嫌な予感がするんだよ。」

雅斗がその快斗の言葉を理解するのは、ステージがはじまった後のことだった。

 

 

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