血の流れる肩口を見つめながら新一はゆっくりと立ち上がった。 心配そうに見つめてくる人々のなかに携帯電話にむかって叫ぶ男の声。 どうやら救急車と警察を呼んでくれているらしい。 新一は薄目をあけながらそんな周りの状況を確認していた。 〜永久花・35〜 『大丈夫ですか?』 ジュースを売っていた店員が新一に尋ねた。 『大丈夫です。それより、あなたに怪我は?』 『ジュースに貫通しただけですから、とくに問題ありませんよ。 それよりも、お子さんが心配ですね。 はやく救急車と警察が来てくれればいいのだけれど。』 店員はそう言って遠くのほうを見つめる。 早く来ないかと伺っているような様子の店員には悪いが、 新一としては警察の介入はできれば避けたかった。 こちらだけ、誘拐事件の情報をもらっていてこんな心情は条理に反するかもしれない。 だけど・・・ 新一はこの場にいてはまずいと自分を支えている店員の隙をうかがった。 どうにかして抜け出さなければ。 『どうかしました?』 『子供が心配なんです。』 黙り込んだ新一に店員は気分が悪くなったのかと心配そうに顔を覗き込む。 それに少しだけヒステリックな声をわざとあげると、 新一はその手を振り払って走り出した。 彼の中のコンセプトは子供が心配で自暴的になってしまった母親。 呼び止める声を無視して、抑えようとする人々の手を 怪我をしているとは思えないほどの身のこなしですり抜けて新一は走り出す。 子供たちを追いかける予定はない。 彼らがうまくやっていてくれると信じているから。 いま、自分が必要なのは。 「待ってろよ。ジン。」 さきほど感じた気配を追うことだけだった。 +++++++++ 気を失った女を背負うと雅斗は近づいて来る由佳に視線を向けた。 彼女が打ち込んだのは、麻酔銃。 それも哀が今回のために改良した特別な麻酔がしこまれたものだ。 薬慣れしている組織の連中用にと、朝方渡されたのを今日使うことになるとは 雅斗も由佳も予想だにしなかった。 「母さんは?」 「ここに来る途中、お父さんに連絡はいれたから、もう合流してるんじゃないかな。」 由佳は携帯電話の画面を眺めながら軽くため息をつく。 それに雅斗は不思議そうな表情を作った。 「敵の一人が手中におさまったんだ。 確かにせっかくの団欒が崩れたことは残念だけど。 はやくこいつらと決着をつければ、平和は日常になる。」 「そういうことじゃないのよ。 あのとき、私はお母さんのいわれるまま雅斗を追った。 でも、もしお母さんが今、危険な状況になっていたら私は・・・。」 「それをいうなら、俺も私情でおもわず動いたし。 それに悲観する前にまず動け。はやく母さんの安全を確認しようぜ。」 由佳の頭の上に大きな手がのる。 ぽんぽんとやさしく叩かれて由佳はゆっくりとうなずいた。 なんだかんだ口ではたまにきついことを言うが、 やはり片割れは自分のことを誰よりも理解してくれる。 手を通して伝わる雅斗の体温が自分ひとりじゃないと伝えてくれているのが 由佳にははっきりとわかった。 「そうね。まずは行動!」 元気を取り戻した由佳の表情に雅斗はホッと息をつくと、 背中にもたれかかる女を一瞥する。 どれだけの情報を引き出せるだろうか。そんな期待を胸に抱いて。 +++++++++ 現場に着いた快斗は集まった警察と救急車に軽くため息をついた。 呼ばれたのに患者がいないと困り果てる救急隊員に状況を説明する周りの人々。 ―――まいったな。やっぱりじっとしてはいないのかよ。 快斗は軽く汗ばんだ前髪をかき上げて携帯電話のディスプレイで時間を確認した。 着信履歴から15分ほどしかたっていないのに、彼はその15分も待てないのか。 「まぁ、予想はしてたけど。」 警察の中には日本から来ている高木刑事の姿も見えて、 見つかればやっかいだと快斗は人ごみに身を投じる。 そして、自慢の聴力でわずかながらの情報を頭にインプットした。 わかったのは、打たれたときの状況と、新一が走り去った方角。 由佳の話では腕に怪我を負ったらしいが。 快斗は携帯電話のメモリーから手早く一人の電話番号を探し出すと それを耳に当てながら走り始めた。 新一が向かったと思われる方向へ・・・・ ++++++++++ 帰りが遅い。 哀は壁にかかった時計を見上げながら表情をゆがめる。 どうも今日は朝から落ち着かなかった。 だからこそ由佳と雅斗に麻酔銃を持たせたのだが、それはどうにか役立ったらしい。 さきほど由佳から、女を一人連れ帰ると連絡を受けたばかりだ。 それにその女は新一に発砲した女だとのこと。 「どうしてやろうかしら。まったく。」 憎き黒の組織の女がくる。 情報を吐き出させた後、いっそ、殺してしまいたくもなると哀は思った。 自分の中にはまだどす黒い血が流れているのだろうか。 「まぁ、それは後々考えればいいことよね。今は黒羽君からの連絡が第一・・・。」 哀がそう独り言をもらしたとき、タイミングよく電話が鳴った。 あわててベットの上におかれた携帯をとり、耳に当てる。 そして、聞こえたのは予想通りの見解。 「ええ。わかったわ。ひとりはこっちの手の内にあるけど・・・。 黒羽君。くれぐれも無茶はしないように。工藤君を頼んだわよ。」 哀は電話を枕元におき、ベットへとみを投じ何度目かわからないため息をついた。 「これ以上、嫌なことが起こらないといいけど。」 昔からよくあたる自分の勘が今は本当に妬ましい。 己の右手を目元に当てて、哀は混乱する感情をセーブしようと軽く深呼吸をした。 「・・・哀姉。」 「悠斗?どうしたの。」 急に聞こえた声に哀は飛び起きて、顔の真っ青な彼を見据える。 そして、次の一言で哀は意識を手放したいほどの衝撃を受けた。 「由梨が消えた。」 それになんと返事をしたのかは覚えていない。 彼女が正気を取り戻し、気がつけば細い路地裏をがむしゃらに走っていたから。 ++++++++++++ 「そろそろ動かなきゃ・・かな。」 静かな隠れ家でパソコンをうちながらビットはくすっと不敵な笑みを浮かべた。 小学生には不釣合いな、だけれどその表情はどんな表情をよりも彼に似合う。 パソコンの電源を落として、今は誰もいないジンの部屋に入ると、 彼のデスクのメモ用紙に小さく書き残した。 『最後の晩餐の始まりだね』と。 盗まれたデーターはビットとしては想定外のことだったが、 今思えば、軽いスパイスが加わったようなものだ。 このことによって、今回の勝負にアクセントがついた。 そう考えると、ビットの鼓動は今までにないほど高鳴る。 いつも冷静沈着に生き、半世紀ほど若返ってからもここまで興奮したことはない。 「行く前に、彼女たちに挨拶をしてこようかな。」 テーブルに無造作に置かれた銀色の鍵を手にしてビットは目を細める。 半ズボンに入れえられた携帯電話が振動していたが、 ビットはそれに応えることなく電源だけを落とした。 もう、この電話に出ることはない。 「さよなら。お母さん。」 だましてて悪かったとか、寂しいとか、そんな気持ちは微塵もなかった。 ただ、あるべき場所にことは収まったのだ。 そう、ただそれだけのこと。 あの女性が泣き叫ぼうが、事態は変わらないのだから。 |
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