「シン。どうやら俺は命を狙われているらしい。」 安いホテルの一室でコーヒーを飲んでいた新一にシャワー室から出てきた秀一は 髪をガシガシとバスタオルで乱暴に拭きながら、そう一言告げた。 まるで、今日の天気を口にしたような手軽さで。 〜空に刺さった三日月・後編〜 シャワー後の秀一の印象は、普段と大きく異なる。 水に濡れた髪は、ウェーブがとれボリューム感が少ないのだ。 加えて朝帰りのせいもあってか、不健康そうな顔つきはより一層酷くなり そんな彼を見て今にも倒れそうだと何度思ったことか。 新一はそんな現実逃避をしながら、濃いめのコーヒーを再び口に運ぶ。 だいたい、面倒ごとに関わるつもりは無いのだし。 「おい、シン。相棒が重要な相談をしてるんだぜ。」 「誰が相棒だ、誰が。」 ククッと笑いながらベットに乱暴に座った秀一は大きく欠伸を1つ漏らす。 小さな窓から注ぎ込む日の高さはずいぶんと高くなり、朝という時間帯も、もう直ぐ終わろうとしていた。 新一は最近の秀一の様子を思い出しながら立ち上がり、コーヒーをもう一杯いれる。 なにやら周囲が騒がしいとは思っていたが、命を狙われていたとは。 だからといって、新一が心配することなど何も無い。 現にFBIで裏組織に一番恨みを買っている男なのだ。 狙われないほうが珍しい。 「俺、そろそろ単独行動にするかな。」 「シン。てめぇ、薄情にも程があるぞ。」 「俺のどこが薄情なんだよ。わざわざコーヒーを用意してやってんのにさ。」 そう言って、ほら、とぞんざいに突き出されたコーヒーを秀一は渋々と受けとった。 確かに彼のコーヒーはおいしい。 どんな安物のインスタントでも、 微妙な湯加減で作り出すこの味は秀一の数少ないお気に入りのひとつでもあった。 「それとこれとは話しが別だ。だいたい、今回狙われてるのはてめぇのせいでもある。」 「は?」 「ルース・エスポワール。って言えば分かるな。」 驚いたように振り返った新一に、秀一は写真を一枚投げてよこす。 その名も写真に写る少年も、新一には覚えのあるものだ。 数週間前に路地裏であった少年。 そして、このフランスを掌握する裏組織のドン。 彼に睨まれた人間で生きているものなど、今までいないため、別名、死神とも呼ばれていた。 「ルース相手か。今までありがとう、秀一。」 「おい・・・。てめぇの耳は節穴か?俺はシンのせいで狙われていると言ってんだ。」 「根拠の無い話を、探偵にすんじゃねぇよ。」 スッと写真を投げて返すと新一は飲み終えたカップを洗面所へともっていく。 秀一はそんな彼の態度に再びため息をつきながら、スプリングの悪いベットに身を投げた。 ギシッと軋む音を聞きながら見上げた天井は、黄色く変色していてところどころに染みも目立つ。 安いホテルに泊まるのは慣れたが、 こうした光景をみるのも最後かもなんて思うのは無理も無いことだろう。 本来なら命を狙われても自分ひとりで対処してきた。 それが不可能と分かったからこそ、秀一は新一に今回の件を話したのだ。 秀一とて新一を巻き込む気など毛頭無かったが、 ルースの本来の狙いが新一と分かった時点でそれを諦めた。 たとえ自分ひとりが死んだとしても、新一に彼の手が伸びるのは時間の問題だ。 「どうして変な野朗ばっかり惹き付けるんだろうな。」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。それより、動くぞ。」 「シン?」 「イタズラ小僧には、大人の指導が不可欠だろ?」 そう言って投げ渡されたコートに、『俺、徹夜明け』と主張してみたが そんな言い分も、彼の笑顔の前には無意味で。 慌てて鏡台にあった車のキーを手に取ると、彼の背中を追いかけるのであった。 ある程度の情報はFBIを通して集まってきていた。 新一は助手席で資料に軽く目を通しながら、黒幕が別にいることに納得する。 だが、アメリカギャングから依頼されたのに、 その謝礼が自分ということには到底納得など出来なかった。 「俺は物かよ。」 「ははっ。まぁ、シンの利用価値は裏組織ではプラチナ級だからな。」 「冗談じゃねぇ。」 乗りなれた車のシートに身を深く沈めて新一はルースと出会った夜を思い出す。 狡猾な少年、孤独な少年、冷徹な少年。 そのどれもが当てはまり、微妙にずれている気がしたものだ。 けれど、確かなのは、彼の実力。 秀一にとて恩義はある。彼を助けたいとも思う。 だが、もしもの時には・・・・。 「おい、シン。くだらねぇこと考えるなよ。おまえの目的は何だ?」 「・・・KIDを見つけ出すこと。」 「だろ?それだけは頭に叩き込んどけ。」 秀一の一言に、全てお見通しかよ・・と新一は拗ねたように窓の外に視線をずらした。 「ボス。ターゲットがホテルを出ました。」 「そっか。で、レーネは?」 「はい。ご一緒です。」 「てことは、もう話しちゃったんだ。赤井のやつ。」 グラスに注がれた血の色をしたワイン・・・ではなく葡萄ジュースを飲みながらルースは小さく笑った。 日本では20歳からお酒が飲めるのよ。と 柔らかく微笑んだ母の言葉を守り、ルースは酒など口にしたことは無い。 だいたいアルコールは判断力を鈍らせるものだ。 「予定通り、彼らはフランスの国境へと向かっています。」 「まぁ、ここに留まるはずは無いからね。じゃあ、俺らも行こっか。国外に出られたら面倒だし。」 グイッとジュースを飲み干して、少し飲みこぼした雫を手で拭い取る。 その姿は血を滴らせる獣のようで。 「赤井。今日がお前の命日だよ。」 立ち上がり際に投げ捨てられたワイングラスが、パリーンと気持ちのいいほどの音を立てて砕けた。 これはどういうことだ。 ルースは銃を向けた相手を見据えながら必死に思考をめぐらせつつも目の前の現状に固まっていた。 車で国境に向かっていた二人を襲撃して引き離し、赤井秀一だけを路地裏に追い込んだ。 あとは、この引き金を引くだけで終わるはずなのに。 「どうしてレーネが・・・。」 ルースの呟きに三日月の柔らかな光に照らされた彼は晴れやかな笑みを浮かべた。 「変装は俺の特技のひとつだからな。それより、よく俺って分かったな。」 未だに変装をといていないのに、と呟く新一にルースは小さく舌打ちする。 赤井秀一と何度か銃撃戦になり、ウィークポイントについては熟知していた。 そこを狙ってうまく交わされたため気付いたなど、変装に完全に騙されていたことを露呈するだけだ。 これでもプライドは高いほうだと自負しているルースは、 新一の疑問に答えることなく一歩距離をつめた。 「ルースの部下は俺に変装したシュウを捕らえているんだろうな。」 「そうだね。慎重に扱うように言ってあるし、 睡眠薬も薬が効きすぎるレーネにあわせて弱めてある。 油断しないなら赤井に負けない奴らだけど、今頃倒されてるころかなぁ。」 新一を確保して眠らせたという連絡は貰っているが、それ以降連絡は来ない。 共に連れて来た部下も新一のすばやい動きに翻弄され、 まだ追いついていなかったため、ここに居るのはルースと新一だけだった。 「土地勘はあるほうだったと思うんだけど。」 「いくらフランスマフィアでも管轄地全土、とはいかないんじゃねぇか。」 銃を向けたまま新一は目を細める。 逃げている途中でかすったのか、人工の皮膚が少しだけはがれていた。 話しながらも間合いを詰めるルースの足音が静かな夜の空に響く。 彼ならば足音1つ立てずに近づくことも可能なはずだからこそ、 あえて音を立てているように新一には思えた。 「レーネと初めて会ったのも三日月だった。」 「そうだったっけ?」 「そして、レーネが死ぬ日も三日月だね。」 引き金に指をかけ、ルースは自分に言い聞かせる。 執着などしてはいけないと。 目の前の男をいつものように殺せば良いじゃないか・・と。 「ルース、銃口がずれてるぞ。」 新一はそう言って、トントンと親指で胸の辺りを示す。 いつの間にか向けられていた彼の銃は足元に転がっていた。 「俺が殺せないと思ってるのか?レーネ。」 「さぁ、どうだろうな。」 あまりにも無防備な姿にさらに冷静さは失われていく。 さらに罠があるのか、それとも本当に殺さないと信じているのか。 いや、そんなはずはない。 彼だって裏社会を渡り歩いていたからこそ・・・・。 「後ろに注意力が向けられてないぜ・・・・フランスマフィアのお頭さん。」 カチャリと聞こえた音と本物の秀一の声に、ルースは自分を笑った。 ほら、執着するからこうなる・・・と。 「なんでそこで撃たなかったのかなぁ。」 話を聞き終えて、快斗は欠伸をしながらのんびりとそう呟く。 その言葉にピクッとルースのボディガードが反応したが、快斗は気にする様子はなかった。 大きなカボチャは鍋でゆでられ、良い匂いが部屋に充満していた。 ルースは椅子に座り足を振りながら、今夜はここで食べていこうと勝手に思う。 「レーネの愛の力だね。」 「愛じゃねぇよ、優しさだろ。な、新一。」 「・・・・。」 話の途中から新一は日本から送られてきた推理小説に夢中になっており 快斗の言葉もルースの言葉も通じていない。 けれど、相変わらずのことのためか、2人とも気にした様子は無かった。 「レーネって本当に三日月みたいだ。」 「三日月?」 「ちょっとキツイとこもあるけど、充分な明かりをくれるからさ。 満月はこんな僕には眩しすぎるし。やっぱ傍にいて心地いいんだよね・・。だからさ。」 ピョンっと椅子から飛び降りて、ルースは快斗に近づく。 何事だろうと眉を顰めると、彼は快斗の耳元に口を寄せた。 「レーネを僕にちょうだい。」 「やだね。」 何度目になるか分からないやりとりを、彼らは続ける。 それはもう、会ったときの挨拶のように。 新一の頼みにより、秀一はルースを撃たなかった。 もちろん、今後の混乱のことも考えたのだろうが、捕まえることもしなかったのだ。 どうしてかと問うルースに新一は秀一の顔を剥がし、素顔に戻って告げる。 『人を少しは信じられるようになって欲しいから・・かな。』 と。 「騙しておいてそれはないよなぁ。」 「・・・何が?」 「秘密。僕とレーネの大事な思い出を全部教える気なんてないし。」 ルースはそう言って微笑むと、快斗から離れて新一の隣に座る。 そして、甘えるように彼の肩に頭を乗せた。 快斗がギャーギャーと騒いでいるが、本をソファーで読む新一に 『うるさい』とクッションを投げつけられ、それもすぐに静かになる。 新一は邪魔にさえならなければ、邪険にはしないから。 人を信じられるようにと新一は言った。 けれど、ルースが信じるのはそれからずっと新一だけだ。 執着していいと思えるのも。 もし、このせいで自らを窮地に立たせるとしても、後悔なんてしない。 だって、彼は ルースの夜空のような深い心の闇に、たった1つ刺さった三日月なのだから。 END |