ひやりと取り換えられた手拭いが心地いい。

けれど未だに熱が下がることは無く、新一は苦しそうに息を吐いた。

この熱にうなされること、1週間。

 

主治医の新出の話では、特別利く薬も無く、ただただ療養するしかないとか。

つまりは原因がよく分からないのだ。

もちろんこんなことは珍しくもないのだが、

さすがに病に慣れている新一自身でさえ今回はさすがにやばいかなぁと思う。

うっすらと目を開けると自分よりも苦しそうに表情をゆがめている手代の一人、快斗が視界に映った。

あまりにも心配そうなそれに大丈夫だと言いたかったが声も出せず

代わりに新一はただただ緩くほほ笑むことしかできなかった。

 

 

 

〜雪おこし・前編〜

 

 

「今度の病はひどいらしいわね。」

「いい加減、諦めてくれればいいものの。」

「あれほど病弱でこの店の跡取りが務まるとは思えないな。」

「うちの息子のほうが、適任だわ。」

「いっそ、今回で死んでくれたら・・・。」

「ちょっと、その発言はまずいわよ。」

「なによ、お宅だってそう思ってるでしょ。」

「やめないか。とにかく、心配せずとも成人前には・・・。」

 

聞こえてきた親せき連中の声に新一はゆっくりと目を開いた。

どうやらずいぶん眠っていたらしい。

身体のだるさは若干残るものの、熱りは無く、熱が引いたのだとわかった。

 

それにしても最悪な目覚めだ、と新一は思う。

見慣れた天井をじっと見つめ、ゆっくりと長く息を吐く。

 

他人に言われずとも分かっているのだ。

このような体では、これほどの大店を牽引していくことなどできないと。

 

店で働く者たちも、両親も、そしてもちろん二人の手代も

新一のことをそれは、それは可愛がってくれる。

だが、親戚たちから死に損ないと思われていることは確かだった。

 

誰もが自分の子供に店を継がせたいと心の奥底では思っている。

 

そこまで考えて新一は視線を枕もとに移した。

 

彼らがお見舞いにと持ってきた品々だろう。

おそらく両親に気遣いの言葉をかけ、心情とは正反対の表情をつくったに違いない。

両親もそんなことはわかりながらも、わざわざすみませんと茶でも出したのだろうか。

 

「ここに快斗や平次がいなくてよかった。」

 

小さく呟いた声は思ったより掠れていた。

 

いつもならば目を覚ました気配に手代のどちらかがやってくるのだが今日はその気配はない。

 

まぁ、あの親戚たちの言葉を聞けば、

一に若だんなを大事とする彼らはいくら見知ったものとは言え、容赦なく仕返しをするだろう。

そう思えば、ここに彼らがいないことはよしと思えた。

 

屏風覗きの白馬を始め妖たちは、

新一が熱を出してからは療養の邪魔だとこの部屋から閉め出されているためか、寝室は一層静かで。

もう一眠りしようか、と新一が目を閉じかけたときだった。

 

ギシリと床の軋む音が響く。

親戚は帰ったばかりだから・・・と視線を向ければ小さな風呂敷を抱えた幼馴染がそこには立っていた。

 

「新一。起きていたの?ひょっとして、起しちゃったとか。」

「いや。起きていた。」

 

新一の言葉に、幼馴染の蘭はホッと息をつき、彼の枕元に腰を下ろす。

淡い橙色の着物は晩秋のこの時期に合っており、彼女のセンスの良さがうかがえた。

 

蘭はおくれ毛を耳にかけると、手ぬぐいを水に浸し、再び額にのせる。

 

「気分はどう?」

 

「だいぶいい。熱も下がったみたいだ。それに蘭が通されたってことは

新出先生の許可が下りたってことだろ。」

 

「ご明察。今朝方にもう大丈夫っていう太鼓判をもらったみたいよ。

 これ、お父さんが作った和菓子。私のじゃないから安心して食べてね。」

 

風呂敷をたくさんの見舞いの品の中におくのを眺め

新一はちゃんとした想いの詰まったそれに心の中で感謝する。

口は悪いが、蘭の父である小五郎は、自分のことを息子のように気にかけてくれるのだ。

とても菓子職人に見えない彼だけれど、その和菓子は江戸城下でも一二を争う腕前で。

 

けれど、一人娘の後継ぎである蘭は、母親の料理音痴を受け継いでしまったのか、

未だに餡子などの菓子は不得手であった。

 

「明日には食べれるようになると思う。

それに蘭の作った菓子も、元気な時ならなんとかいけるぜ。」

 

「弁解になってないわよ!!もう。」

 

わざとらしく肩を落としてみせると、蘭はチラリと周囲を窺う。

その様子に新一はおや?と目を細めた。

 

「何かあったのか?」

 

いつもならば、もう二三語、文句を言うはずなのに。

 

「それがね、渉さんのことなんだけど・・・。」

「渉兄さんがどうかしたのか?」

 

蘭は小さくうなずき、新一の耳元に口を寄せる。

この家で渉の名前が厳禁になっていることは彼女も重々承知していた。

 

初めて産んだ子供を数日で失い、途方に暮れる妻を元気づけようと

優作が思いついた手段は、余所で子供を作ることだった。

そうして外で設けた子供が、渉なのだ。

 

もちろん、渉を連れて来た優作に有紀子は烈火のごとく怒り、

母親が引き取りに来るまでの半月、目も合わさなかったのだとか。

 

その母親も病に倒れ、とある店に奉公に出ていることは新一も蘭から聞いていたし

何度か傍まで行って遠目に見たことはある。

自分とは違い、逞しい兄に、何度この店を継いでほしいと言いたかったことか。

 

それ以上に、半分とは言え、血を分けた兄弟と話もしてみたかった。

そして幸せに生きてほしいとも思うのだ。

 

「渉さんの奉公先でお家のご子息が殺される事件が起きて、その犯人に・・・。」

「兄さんが!?」

「ええ。今日にも奉行所に連れて行かれるそうなの。」

 

蘭の言葉に新一は反射的に起き上がる。

パサッと額の手ぬぐいが落ちたが、気にしている余裕などなかった。

 

「ちょっと、新一。」

「渉兄さんが殺しなんてするはずない!」

 

遠目に眺め、周囲の人々にも聞いた渉という人物を新一は正確に認識している自信がある。

とてもお人好しで、優しくて、他人の痛みを自分の痛みのように感じる人。

気が弱く、ちょっと抜けているのが欠点だけれど、それもまた彼の魅力のひとつでもあった。

 

「でも、まだ病み上がりでっ。」

 

「ここでこのまま眠ってたら、俺は生きていることを後悔する。

大切な兄一人も守れないなんて・・・。」

 

蒼い双眼に見つめられ、蘭は言葉を失う。

 

日頃わがままを言わない彼だからこそ、こうして真剣に願われると何もできなくなるのだ。

 

「せめて、手代二人には伝えるからね!」

 

裏口から姿を消す背中にそう伝え、蘭は急いで廊下を進む。

その時、白い猫が隣を通り過ぎたが、急いている彼女に気づく余裕はなかった。

 

 

 

渉が勤めている奉公先までは、駕籠をとばしても半刻はかかるのだが、

今日は慌てて出てきたせいか銭も持っておらず、新一は徒歩を余儀なくされた。

もちろん気持ちは焦っているのだが、病み上がりの体では思うように走ることもできず

気を抜けば意識をもっていかれそうになる。

加えて庭先にあった簡単な草履を履いてきたためか、草履の緒が指に食い込み僅かに血が流れていた。

 

 

それでも、と新一は一歩一歩先へと踏み出す。

 

奉行所ですぐに裁きを言い渡されるわけではないが、

文献で読んだことのあるバテレンと同じようにこの国の裁きが平等とはいえないのだ。

 

要は金子や肩書きが力をもつのである。

そうなれば奉公人の男など、すぐに打ち首になってもおかしくはなかった。

 

「たのむから、間に合ってくれ。」

 

奉行所の中に入ってしまっては、いくら長崎屋の息子といえど、

中に介入することはおろか、会うことさえままならない。

 

顔が利く目暮の親分も管轄は違うし、奉行所までは入れたとしても口添えは難しいだろう。

 

それならば、引っ張られていく前に、どうにかしなくては。

 

 

と、その時だった。

日本橋まで来て安心したのだろう。

 

 

フッと体から力が抜ける。

 

 

そのまま体は橋の手すりのほうに傾き、体は中に投げ出された。

 

「きゃっ。」

「おいっ。」

「落ちるぞ!」

 

驚く女性の声とざわめく人々の声が遠くに聞こえる。

だが新一には手すりを咄嗟に掴む力も着水後に泳ぐ力も残っていなかった。

 

やばい。俺は本当に何も出来ずに死ぬのか・・・!?

 

嫌だ。そんなの、嫌だ。

 

 

 

心の中で必死に手代の名を呼ぶ。

 

快斗、平次。

助けてくれ・・・。と

 

 

 

 

「っとに、心臓が止まるところでしたよ!」

 

あと少しで水に落ちるという瞬間。

感じたのは秋の冷たい水ではなく、暖かでたくましい二本の腕。

恐る恐る目を開ければ、心底ホッとした表情の快斗が居た。

 

「なんで・・・。」

 

「志保が伝えてくれたんです。

ちょうど新井先生を送っていたときでしてこの近くにいたんですよ。

 平次も毛利屋の蘭さんから話を聞いて、先に渉さんの奉公先に向かった・・と鳴家が。」

 

驚く新一を傍目に、快斗の癖毛の隙間から鳴家がひょこっと顔を出す。

情報伝達をきちんとできたことが嬉しいのか、その顔は得意げで。

新一は軽く手を伸ばして、鳴家の頭を撫でてやった。

 

「きゅわ、きゅわ。」

「若旦那、先に鳴家にご褒美とは、剣呑です。」

「快斗・・。おまえ子供じゃないんだし。」

 

「鳴家は見目さえこうですが、齢は我と300年ほどしか変わりませんよ。」

「俺には全然実感できない値だよ。充分にな。」

 

明日さえ生きていけるか分からない身としては、10年でも永遠に思えるというのに。

 

だが、視線をずらすと着物のまま川に飛び込んだ快斗はずいぶんと濡れていて。

今日は秋とは言え若干冷えるのだと、新一はその懸命な働きに申し訳なくなった。

 

「ありがとう、快斗。おかげで助かった。」

 

ふわふわとその手触りのいい頭を撫でてやると

快斗は猫や犬のように気持ち良さそうに目を細める。

その間に、鳴家は伸びてきた手を伝って、いつもの場所である若旦那の袖の中にもぐった。

 

「それで、若旦那。今から帰りましょう・・と言っても聞き入れてもらえないのでしょうね。」

「よく分かってるな。さすが、快斗。行ってくれるよな?」

 

「・・はぁ。だと思いましたよ。

ですが少しでも体調が悪くなったら有無言わさずに飛んで帰りますからね。」

 

ざぶざぶと川から上がると快斗は新一をおろし、着物を絞る。

新一は着替えをと口にしたが、すぐに乾きますとやんわり断られた。

もし濡れているのが新一ならば、

所構わず店に入って無理やり着替えを用意するというのに。

 

「少しは自分自身も大事にしろよな。」

「その言葉、そのまま返しますよ。」

 

ムッとしてつげると、いっそ晴れやかなほどの笑みを返されて。

新一は深々とため息をつくことしかできなかったのだった。

 

その後、新一の足に傷に気付いた快斗が、やはり一度帰りましょうと騒ぎ、

一方の新一は、早く渉の奉公先に向かうのだと叫んだため

新一を乗せた駕籠屋がどちらに行けばいいのか右往左往したのは言うまでも無い。