「中森さん?」

新一の前を進んでいた影が、ぴたりと止まる。

そしてその先には電信柱に体を預けるようにして立っている女子高校生。

新一は見慣れた背格好に眉を細めた。

 

 

―あかつき―

 

 

「もう、大丈夫なのか?」

 

少しだけ足を速めて、駆け寄る。

だけど彼女は口を開かない。

 

「中森さん・・どうし・・」

「快斗から離れて!!!」

 

心配そうに新一が手を差し出した瞬間だった。

彼女がポケットに突っ込んでいた右手を出し、

その手に用意していたカッターナイフで新一の手を斬りつけたのは。

 

思ったよりもザックリと切れたのか、新一の手の甲からおびただしい血が流れ始める。

 

「ツッ。」

「快斗を操るなんて卑怯よ!!この化け物っ。」

 

青子はそう言ってなおもカッターを振り回す。

気をつけないと彼女自身まで傷つけそうな勢いに新一はとまどった。

 

 

「落ち着け、中森さん。けがするぞ。」

「うるさい、うるさい!!」

 

『化け物のおまえなら、力を使えば彼女を止められるだろ。工藤。』

「ケルベロス!!これはおまえの仕業か。」

 

青子の攻撃を避けながら、新一は怒りの混じった視線を、塀の上へと向ける。

黒いしなやかな胴体に、赤い瞳の犬。

地獄の番犬とも呼ばれ、闇の先駆者でもあるケルベロスは

新一にとって相対に位置する式神だ。

 

そして、先日村をおそった“あいつ”がケルベロスの主でもある。

 

新一は怒りの矛先をケルベロスに向けたかったが、

今は目の前の少女を正気に戻すことが先決だと思い、

向かってきたカッターナイフの刃先を迷うことなく握りしめた。

 

先ほど以上の痛みが走り、鮮血が夕焼けの中に舞う。

その血が顔にかかり青子は驚いたように顔面蒼白となった。

 

「あ、あ・・・。」

「俺は大丈夫だから。落ち着いて、中森さん。」

 

がたがたと震え始めた彼女に新一はそっと語りかける。

青子はようやく自分の行ったことの過ちに気がついたらしく、

その恐怖で身を縮め、そしてフッと気を失った。

 

誰かを傷つけたり殺したりした後の人間の行動は大きく分けて二つ。

その達成感に喜ぶか、はたまた罪の意識に身をやつすか。

 

彼女の場合は一般的な後者の部類のようで、新一はとりあえず安心して息をつく。

これ以上、彼女が攻撃を仕掛ける心配は消えた。

もちろんアフターケアは必要となってくるが。

 

それより・・・

 

新一は倒れた彼女の横を通り過ぎて、

血の滴る手を見つめているケルベロスを睨んだ。

 

だが、ケルベロスが見つめているのは新一ではなく新一の手から滴る鮮血。

それは、まるで餌をお預けされた犬のように。

 

『血、血だ。』

 

「そんなに俺の血がほしいか?」

 

『ほしいに決まっているだろう。おまえの血は我らの力。それもとてつもない力になる。』

 

唾液をぼたぼたと牙の間から流し、

欲につられたように一歩一歩ケルベロスは新一へと近づいた。

黒い肢体に無駄なくついた筋肉が緩やかな影をつくる。

 

新一は近づく彼に血の流れる右手をゆっくりと差し出した。

 

「ならば飲めばいい。最高の味を。」

 

血液に魅入られたケルベロスは知らない。

そう言った新一の表情が恐ろしく不適な笑みを浮かべていたことを。

そして、高潔すぎる彼の血液が闇の生き物には猛毒となることを。

 

ペロリと血液を舐めて、ケルベロスは嬉しそうに遠吠えし、息絶えた。

ガクガクと体を震わせて、苦しそうに泡をはきながら。

 

「この程度のことを知らないとは、とんだ雑魚だな。」

 

新一は泡となったケルベロスを一瞥して、けがをしていないほうの手で青子を持ち上げる

 

さて、彼女の家は・・・。

よくよく考えてみれば、新一は“中森青子”についてほとんど知らなかった。

知っているのは、彼女が快斗の幼なじみであり、優しい少女であるということだけ。

 

どうしたものだろうか。

そう頭をひねっていたとき、タイミング良くリッキンデンが塀の上から飛び降りた。

 

『そのお怪我は!!!』

 

リッキンデンは驚いたように新一の足下に駆け寄り、新一を見上げる。

それに新一は大したことでは無いとばかりに柔らかくほほえんだ。

その微笑みは夕焼けの中でさらに妖艶に見えて、リッキンデンはかるく目を伏せる。

自分にはまぶしすぎるとばかりに。

 

「それより、彼女の家を知らないか?」

『ああ、知ってます。私の家の近くでよく遊んでもらってましたし。』

「なら、案内してくれ。」

『喜んで。』

 

リッキンデンは長いしっぽをピンと張って誇らしげに歩き始める。

新一はその後に続きながら、耳元で聞こえる吐息に口元をゆるませた。

 

「中森さん。路上であったことはすべて夢だから。」

 

そっと彼女に告げる言葉には、暗示の力を含んでいて、

彼女はそれに反応するようにコクリと頷く。

どうしてケルベロスに操られるほど自分を憎んでいたかはわからない。

それでも、彼女には笑っていてほしいと思った。

 

黒羽が心配しないように・・・なんて考えるあたり、俺もどうかしてるな。

 

見上げた空は茜色から黒へと刻一刻と変わっていく。

 

 

 

彼女の自宅について、新一はそっと青子を玄関口へとおろすと再び彼女に暗示をかけた。

 

「ベットに戻ってゆっくりとお休み。今日のことはすべて忘れるんだ。」

 

青子はコクリと頷いて、のろのろと家へと入っていく。

それを確認して新一は疲れ切ったように側の壁へと背中を預けた。

足下ではリッキンデンが心配そうにニャーと声を上げる。

 

青子を運んだためか、右手の傷口はふさがるどころかさらに広がっていて

新一は予想以上に多い出血量に目を細めた。

 

『新一様。はやくお帰りになられないと。それとも誰かお呼びしましょうか?』

 

「いや、歩ける。それよりなにか布をもらってきてくれないか。」

 

ハンカチで応急処置はしたものの、どうやら出血を止めるまでには至っていないようで

新一はリッキンデンに布の調達を頼む。

すると彼は素早い身のこなしで隣家へと入っていた・・・そう隣家へ。

 

 

「おい、馬鹿猫!!タオルをとるな。」

「快斗。早く捕まえて。」

「ニャー!!」

 

聞こえてくる声は、良く知ったもので、新一は己の運の無さに疲れ果てて

深くため息をつくとその場に座り込む。

きっとリッキンデンは、快斗と彼女の母親をここに連れてきてしまうだろう。

自慢げに泥で黒く汚れた洗い立てのタオルを持って。

 

「快斗、猫は外に行ったわ。」

「OK。って・・・工藤?」

 

玄関から飛び出して猫を追ってきた女性と快斗に新一は困ったような笑みを向けた。

リッキンデンはそんな新一の膝元に飛び乗って、口にくわえたタオルを差し出す。

 

「まずったな。リッキンデン。それともこれがねらいか?」

『新一様のお体が一番ですから。』

 

どうやら目の前の猫は思ったよりも頭が切れるようで、

すべての行動は彼らをここに導くためだったようだ。

全く持って、小さな親切大きなお世話とはこのことを言うのだろう。

 

「快斗。・・・彼女の手。」

「工藤、大丈夫か!?」

 

暫く呆然と新一とリッキンデンを眺めていた快斗とその母親は

ようやく新一の右手から流れる血に気がついたようで、慌てたよう駆け寄ってきた。

 

「深い傷ね。快斗、彼女を早く部屋に運んで。」

「ああ。リッキンデンは志保ちゃんを呼んできてくれる?」

「ニャー。」

 

言葉の意味が分かったのか、

リッキンデンは素早い身のこなしで隣の垣根の奥に消えていく。

それを確認して、快斗はそっと新一を抱き上げた。

 

「こうして抱き上げるのは2回目だな。」

 

ニッと笑って新一を見下ろすと、新一はばつが悪そうにプイッと顔を背ける。

 

そんな新一のかわいらしい反応に、本当ならこのままおでこにでも

キスを落としたい気分になった快斗だったが

ここで暴れられても傷口が広がると思いどうにか押しとどめた。

 

部屋の中から母親が呼ぶ声が聞こえる。

それに軽く返事を返して快斗は新一を気遣いながら、家へと入るのだった。