「なんや、えらく静かやな。」

 

日が昇りきる前に村を出たため、阿笠の家についたのは、出勤ラッシュがひと段落し、

戦場のような朝を終えたお母様方が一息ついている時間帯だった。

チュンチュンと鳴くスズメの声が、平和な社会を色濃く象徴しているようで。

志保は半日ほど前の出来事が本当は夢ではなかったのかとさえ思えた。

だが、博士の家を取り巻く雰囲気は、どこか異質で、やはり現実なのだと思い知らされる。

ギュッと手を握り締める志保に、蘭はそっと彼女の背中を撫でた。

 

「大丈夫よ。私達がいるわ。」

「蘭ちゃんの式も私の式も頼りになるんよ。それに、天孤の力も借りれるさかい。」

 

百人力や。と微笑む和葉に、『わいは!?』と隣で平次が声を上げる。

再び始まった夫婦漫才に、志保は小さく笑みを浮かべ、緊張が解けていくのを感じた。

 

 

 

―あかつき―

 

 

 

 

『さて、では参りましょうか。』

「天孤。ありがとう。」

 

先に立った天孤は、主からの言葉に切れ長の眼を、少しだけ丸くする。

そんな表情に志保はしゃがみこんで、美しい毛並みをさらりと撫でた。

 

「助けてもらったお礼、まだだったでしょ?」

 

『当然のことをしたまでですよ。』

 

「それでも、伝えたいの。式神にだってお礼を言われる権利はあるわ。

 私達と同じで生きているのだから。」

 

天孤の瞳が穏やかな色に変わる。

 

『その言葉は2度目ですね。志保様。』

「え?」

『幼い時分、その言葉で私は貴方に助けていただいたのですよ。』

 

さぁ、参りましょう。そうもう一度告げて、天孤は歩き始めた。

その後ろを平次たちが続く。

 

この家に居るのは、博士だけでなく、因縁の相手であるジンだ。

村を守るため、ひいては世界を守るため、彼らはその空間に足を踏み入れる。

全ての力を出し尽くす。多大なる決意を胸に秘めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃、足の怪我を治療し終えた新一は、1人自室にいた。

快斗は昼過ぎにはベルモットの家に乗り込むらしく、別室で最後の確認をしている。

 

『昼間に盗みに入る怪盗がいるのか?』と呆れて聞いたら

『夜まで待つ余裕が無いんだよ。』と肩を落として返された。

 

確かに平次たちが乗り込んでいるうちに、こちらも盗みを終えておきたい。

もし、万が一、夜まで待って平次たちが失敗したのなら、

ジンがこちらに来る可能性も無くは無いのだ。

 

それに、志保の体内にはあのシンが残した宝石が眠っている。

おそらくジンはそちらを手に入れてから、力を完全に取り戻し、

ベルモットと合流するのだろう。

 

「けど、なんでこの村に来たんだ・・?」

 

新一は顎に手を添えて、考え込んでみるが、これといった答えは見つからない。

村に近づかないほうが、ばれずに力を回復させることも出来るだろうに。

 

いろいろと思案して、新一は諦めたように深くため息をつく。

推理するには情報が少なすぎるのだ。

 

 

 

とりあえずは、快斗の後方支援をどうやってするかだよな。

 

あんまり首を突っ込むと、機嫌が悪くなるのは既知の事。

そうとなれば気づかれない程度にあの家に来るであろう村人を

言霊の力でよその場所に追いやるか。

 

そんなことを考えていると、障子の前に人影が映る。

 

 

新一は見知った気配に居ずまいを整えて、静かにその人が入ってくるのを待った。

 

 

「新ちゃん。もう、足は大丈夫なの?」

 

薄紅色の着物の上を茶色の髪が緩やかに靡く。

新一は立ち上がって軽く歩いて見せると、この通り、完治していると示した。

 

「お茶、飲む?」

「そうね。久々に新ちゃんのお茶が飲みたいわね。」

 

床の間の前に座った有希子は、テーブルの上にある折り紙を手にとって眺める。

小さな紙風船を赤と黄色の折り紙で折ってあるもので、

その見事な出来に感心したように微笑んでいた。

 

「これ、新ちゃんが?」

「いや、蘭だよ。お守り、だってさ。」

 

「蘭ちゃん、手先が器用だったものね。」

「母さんは不器用だけどな。」

 

はい。と湯のみを有希子の前に置くと、向かい側に新一も腰を下ろす。

 

「一言よけいなのよ。料理だってなかなか上手くなったんだから。」

「そうだな。感謝してるよ。」

 

使用人を入れない。そう決めたのは目の前にいる母だ。

新一を傷つけたくないと、苦手な掃除や料理も必死で努力して、

縫い物も、手に傷を作りながら頑張ってくれた。

 

有希子はお茶を口に含み、幸せそうにホッと息をつく。

 

「やっぱり、新ちゃんのお茶が一番おいしいわ・・。」

「母さん?」

 

日頃と少し様子が違う母に新一は軽く目を細めた。

天真爛漫を地で行くような人が、今はどこか儚げにみえて。

そんな新一の困惑を感じ取ったのか、有希子は安心させるようにいつもの笑みを向けた。

 

「前世・・・のことをね。少しだけ思い出したの。」

「え?」

 

「村を守ってと私は貴方を死の淵へと押しやった。

私のせいで苦労ばかりさせてきた貴方を。そして、また。私は・・・。」

 

「違うよ。母さん。・・・それだけは違う。」

 

俯く母を、新一はそっと抱きしめる。

有希子が泣くのを見たのは、たぶん初めてだ。

声を押し殺すように、腕の中で、彼女は何度も何度も、『生きて』と呟いていた。

 

 

有希子を宥めながら、新一は快斗の母親から告げられた言葉を思い出す。

彼女もまた、自分の母と同様、我が息子の安否を気遣っていた。

村に帰る前に約束したこと。

 

 

それは、彼の解放だ。

 

 

『これが最後。全てが終わったら、あの子を返して・・・。

 盗一を奪われて、あの子まで奪われたら。私は生きていけないわ。』

 

そのときの快斗の母の声は、今の有希子と同じだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ずいぶん待ったぞ。』

 

部屋に足を踏み入れると、紅い毛並みのソウが、ゆったりとソファーの上に寝転がっていた。

5本の長い尾が、来訪者を小ばかにするように揺らめいている。

数日前までは、この空間は志保にとって、一番心落ち着ける場所だったというのに。

今は冷たく張り詰めた空気だけが辺りを支配していた。

 

『忌々しい獣め!』

 

ヤタガラスが3つ目の瞳をギロリと鈍く光らせると、

その怒りに呼応するかのように白夜が全身の毛を逆立たせる。

平次は自分の中にある鬼の力が、沸々と燃え上がるのを感じてグッと腹の辺りに力をいれた。

 

全ての式が嫌悪している。あのソウという式神を。

 

『一度逃げて、お友達を連れてくるとは・・・。それがあの気高き天孤のすることか?』

 

『どうとでも蔑めばいい。おまえこそ、死ぬ覚悟はできているんだろうな?』

 

天孤の口調がこれまでになく荒々しいものに変わる。

志保と和葉、そして蘭は互いに目配せして、そっと心の中で合図を出した。

 

ソウがどれほどの式神かは分からない。

それでも、個々で挑むよりはいっせいに挑むほうが良いのは確かで。

 

式神はそれぞれの主の命を感じ取って、地を蹴った。

 

 

 

 

 

 

ズドーン

 

 

力と力の拮抗は、行き場をなくし天を貫く。

上から響いた音に、博士は力なく笑みを浮かべた。

 

「この家も気に入っておったんじゃがなぁ。」

 

「あら、吹き抜けの家なんて素敵じゃないかしら。」

 

「やはり君が来たか・・・志保君。」

 

 

あの瞬間、攻撃をしかけたのは白夜とヤタガラス。

その混乱に乗じて、天孤は得意の瞬間移動を使ったのだ。

志保と隣には熊ほどの大きさになった天孤がそっと彼女に寄り添っている。

 

「博士には感謝していたわ。」

「わしも君は実の孫のように可愛かったわい。」

 

「大事な宝石を宿していたから?」

 

フッと冷たい笑みを浮かべた志保に博士は、やれやれと肩で大げさにため息をついてみせた。

 

 

 

 

 

博士の背後には、銀髪の男が未だに静かに眠っている。

 

「志保君。ジン様が君にはどうみえる?」

 

志保の視線に気づいた博士は、まるで謎かけするような軽い口調で尋ねた。

博士から気をそらさないようにしつつも、志保はジンをしっかりと見据える。

その口元には穏やかな笑みをたたえている。

 

 

それは、表現するなら

 

「勝者の・・・笑み?」

 

「そうじゃ。ジン様はもう内に取り込んだのじゃ。ひとつの力を。」

 

『嘘を言うな。狸め!パンドラはここには無い。そして志保様の身体の中の宝石も。』

 

「そう志保君の宝石はまだじゃがな。パンドラはベルモットの手中にある。

 ジン様はシンから宝石を奪った瞬間、肉体を捨てたのじゃ。肉体があっては

 宝石を自らに取り込めるようにするまでに滅びてしまうからのぉ。」

 

一歩一歩、博士はジンへと近づき、巨大なガラス板にそっと手を置いた。

 

「ベルモットはジン様の式神。飛閻魔・・そしてジン様のもうひとつの器じゃ。」

 

『な!?』

 

 

 

工藤君・・黒羽君!!

 

新一をジンに近づかせてはならない。

そう、快斗は言っていた。

 

けれど、彼は、あの村に居るのだ。

 

4家の3人がこちらに来てくれた。ジン様の力が満ちるタイミングに合わせるように。

 まさに、天が我らに味方してくれている・・・そうは思わないかい?」

 

楽しくてたまらないように博士は笑う。

声を上げて、狂ったように、その大きな腹を揺らして。

 

「そしてワシは君から宝石を奪い、こちらの肉体にジン様が戻れる手助けをするんじゃ。」

 

「冗談じゃないわ。」

 

村のことを心配しても始まらない。

今は、自分ができることをするだけ・・・。

 

志保は焦りを一掃して、天孤を見上げた。

 

「天孤、あの男を消して。」

『よろしいのですね?』

「あんなの・・・博士じゃないわ。」

 

もう、迷いなんてなかった。恩義なんて感じなかった。

 

ただ・・・憎い。そう思った。