目の前に広がる実験用具は、それはそれは簡単な物ばかり。 ガスバーナーに酸化銀、銀色で細長い薬サジ、そして試験管立てに立った試験管。 「酸化銀を熱して、銀を取り出すのね・・・。」 由梨は目の前に転がる薬サジを手にとってフーッとため息をつく。 日頃から実験器具に親しんでいる由梨にとって目の前の道具は最近は使わない代物だ。 悪夢の授業参観 ―由梨の場合― 酸化銀の実験って、3歳の時に哀姉に教えて貰って一度だけやったかな? まぁ、あんまり興味がなかったからそれ以後はしてないけど。 由梨のポリシーは実験結果の出ていない実験をすること。 実験とはもともと何かを見つけるために行うのだ。 結果の分かっている実験をやったとしてもなんの面白みもない。 だからこそ、学校の理科ほど由梨にとって退屈な物はなかった。 そんなことをぼんやりと考えていると、 ガラガラと木製の扉が開き白衣の先生が入ってくる。 その瞬間、ガヤガヤと教室がざわめいた。 「由梨、あれって三山先生?」 隣りに座っている同じ班員(実験は4人グループを一班として行う)の友人が話しかける。 「三山先生?そんな先生いた?」 「ほら、えり好みの激しい先生で有名な、あの三山先生。 にしても、嫌だな〜。あの先生の授業、退屈なんだって聞いたことあるし。 ねぇ、由梨。今日もなにかおもしろいことやってよ。」 友人はそう言って顔の前で大きく手を合わせた。 気がつけば隣の班のメンバーや、同じ班の男子も何か言いたげな視線を向けてくる。 由梨の授業荒し。 それはこの学校中で知られている言葉だ。 だからこそ、由梨と同じクラスになったメンバーはその実験をいつも楽しみにしている。 教科書に載っていない、まだ未知の世界を垣間見れるから。 もちろん、由梨もそう頻繁にそのようなことはしない。 担当である初老の理科の先生は、気前も良く実験もコミカルに進めてくれるため 基本的には好きだし、クラスメイトの勉強に差し支えがあると困るのだ。 だけど、時たま、先生が頼んだり、生徒が頼んだりして、由梨はおもしろい実験を行う。 そんな頼み事をするときの視線だと由梨は思った。 「良いけど・・そうね。来週の掃除当番。これで手を打つけど?」 ニヤリと意地悪げな笑みを浮かべる由梨に全員が嬉しそうに頷いた。 「起立ー。」 チャイムと同時に教室中に響く学級委員長の声にのんびりと生徒達が立ち上がる。 「礼。」 「「おねがいします」」 教師と生徒、どちらともなく頭を下げて授業は始まる。 「じゃあ、早速、今日の実験内容を・・・。」 「三山先生。」 理科教師こと三山が実験の手順を説明しようとした瞬間、 ハイと1人の女子生徒が手を挙げた。 こんなにも早く質問!?と三山は目を丸くする。 実を言うと、三山は今日の授業担当であったベテラン教師が風邪を引き休んでいたので 変わりに抜擢された男だ。 もちろん彼自身、教師歴6年のキャリアはあるし、 今回は説明も簡単な実験。と余裕をもっている。 しょせんは、くだらない質問だろうと思いながら 三山は座席表で質問した女子生徒の名前を確認した。 黒羽・・・彼女が黒羽由梨? 三山は座席表の名前に職員室で話題になっている“黒羽兄弟”の話を思い出す。 どんな場合でも黒羽兄弟の前ではプライドを捨てた方が良い。 それは今まで彼らを担任してきた教師達の言葉。 そして、その4人の中で、最も恐れられているのが彼女、黒羽由梨だ。 教師の間では、別名“教師潰し”とも呼ばれ、 彼女によって自信を失い辞めた教師も多いとか。 「はい、黒羽さん。何ですか?」 たかが生徒だ。 三山は自分のキャリアを過信しながら不安をぬぐい去る。 これでも、東都大で助教授の経験もあり、それなりの実験成果も残しているのだから。 きわめて落ち着いた声で尋ねると、彼女はゆっくりと立ち上がり微笑んだ。 「材料の酸化銀なんですが、 元々担当でした岸部先生からこちらを使うようにと先程連絡があったんです。 なんでも、今回用意していた物は、あまり反応の結果が芳しくないとかで。」 コツコツと教卓の前まで歩み寄ると、由梨は酸化銀の入った容器を手渡す。 10班ある班員全員が実験するには充分な量だ。 「しかし、何も伺ってないが・・・。」 三山はそれを受け取りながら首を傾げた。 「お願いします。ただの酸化銀ですから。」 「あ、ああ。じゃあ、一班ごと代表者は取りに来て。」 妖艶な笑みに反論する術もなく、三山は各班の班長を呼ぶ。 彼は知らない。席に戻る由梨の口元に笑みが浮かんでいたことを。 そしてその笑みに、クラス中が好奇に満ちあふれた瞳になったことも。 「それじゃあ、説明したとおりにやってくれ。 きちんとやれば、高価な銀が手に入るぞ。」 三山の説明にさっそく彼らは実験を開始する。 親御さんたちもどうぞ。との声に、父兄達は自分の子供のいる班の実験を見守った。 もちろん、快斗や新一も由梨のいる班に向かう。 というより、彼らの興味は実験より、由梨の行動だったのだが。 「由梨。」 「何?お母さん。」 ふわりと心底嬉しそうにほほえんで由梨は振り返った。 先程、三山に向けた愛想笑いとは驚愕の差である。 「その、さっきの酸化銀・・・あれって本当に岸部先生が?」 「ああ、あれ。それが、悠斗にお父さんいお灸を据えてって言われたから。」 「は?俺に?」 のんびりと生徒達が一生懸命実験する姿を微笑ましく見ていた快斗も 突然ふられた名前に驚きの表情を見せる。 そんな父親に“ポーカーフェイスは?”と由梨は冷ややかな視線を向けた。 「もうすぐ分かるわよ。」 「新一〜。由梨が反抗期だーーーー。」 「はいはい。拗ねない、拗ねない。これも成長の第一歩だぜ。」 新一はいじけ気味の快斗の頭をそう言ってポンポンとあやすように撫でる。 由梨はそれを見て“おもしろくない”と軽くため息をついた。 「由梨のご両親ってラブラブだねっ。」 「そうしてられるのもあと少しよ。」 「へ?」 由梨の言葉に友人が目を丸くすると、 由梨は試験管から充分に熱せられた白い固まりを取り出した。 それを薬サジの裏で擦ると・・・・ 「きゃ〜かわいい。お魚さんだ!!!」 由梨の隣りにいた友人は銀色に輝くそれを見て興奮気味の声を上げる。 そう由梨の手の中には一枚一枚鱗がはっきりと見極められる、 上質な魚型の銀が析出されたのだ。 そして、教室じゅうで“魚だ!”“すごい、なんで魚になるの?”と魚の連呼。 もちろん、三山までも、頭を捻りながら“魚になんでなるんだ!!”と大絶叫する始末。 まさに、快斗にとっては生き地獄の何者でもなかった。 「ゆ、由梨?」 隣で顔面蒼白の快斗を支えながら、新一は驚愕の視線を彼女に向ける。 2人の愛しくも可愛い娘に、牙と黒い翼がはっきりと見えた瞬間だった。 |