清美は己の武器のひとつである扇をゆっくりと開いた。 ここの扉を開けるのは誰だろうか。 そう考えるだけで憂鬱な気分に襲われる。 なぜ、こんなことになってしまったのか自問しても答えなど無い。 ただ、心残りなのは草加という男だけだ。 自分の旦那としての時間は短かったし、男としてはいまいち魅力に欠けるけれど それでも心から愛していたことに変わりは無い。 人間を信じられず、組織に入って殺戮ばかりしていたせいで凍りついた心が ようやく彼のおかげで溶け出したといっても過言ではなかった。 〜永久花・39〜 「なに、考えてるんだか。」 有名デザイナーの変装をといた彼女は、彼が好きだといった黒い髪をそっと掻き揚げる。 そして人が近づいてくる気配に清美は母の忘れ形見である扇をザッと開いた。 その扇の先から伸びているのは、細い特注のワイヤーで、 触れたものを一瞬にして切り刻むほど殺傷能力に長けている。 だが、使い手間でも傷つけてしまうそれを扱うことはかなりの技術を必要とした。 「馬鹿な人間。入ってきた瞬間に死ぬのに。」 自分とかかわりを持ってしまった草加が生き延びてくれるため。 清美はスッと目を閉じると、扉が開くのにあわせて扇を強く引っ張った。 「どういうこと?」 由佳は道端に落ちていたハンカチに目を細めた。 それと同時にふと記憶を掠めたのは、草加という気弱な男の影。 拾い上げたそれをゆっくりと時間をかけて確認するが、 やはりそれは、すぐに混乱して冷や汗を流す彼が何度も使っていたものに間違いなかった。 「まさか・・・彼が来てるってこと?」 あれほど臆病者の男が、いったいいつの間に来たのだろうか。 ひょっとしたら、トランクにでもまぎれていたのかもしれない。 殺気さえおびていない気配はなかなか掴みにくいのだし、 シャオに全員が意識を向けていたから、気づかなかった可能性は高い。 「まずったなぁ。ひょっとしてこの先に向かったの?」 由佳は見えてきた古い館の前で足を止め、一呼吸おくと思い切って扉を開ける。 バターンと音を立てて開いた扉の先、 身構えた由佳は視界に映った光景にその大きな瞳をさらに見開いた。 「草加さんを殺したの?」 息のない男を抱きしめる女に由佳はおそるおそる声をかけるが、 もちろん警戒だけは怠っていない。 相手が組織の一人であるいじょう、例え戦意がなくとも危険なことに変わりは無いのだ。 由佳の声に女がゆっくりと顔を上げた。 「あなた・・・・もしかして。」 「草加清美よ。なんで、なんであなたが後に入ってくるのよ!!」 ウッと嗚咽を漏らしながら、清美はギッと由佳を睨んだ。 けれど由佳はそのような視線に動じることなく、さめた目つきで彼女を見返す。 いつもの自分ならば、その境遇に悲痛な表情さえ浮かべることもできただろう。 けれど、今の由佳に同情なんてしている余裕は無かった。 最悪の光景にもかかわらず、恐ろしく他人事のように冷静な自分を由佳は全身で感じる。 「私に当たっても彼は還ってこないことくらい分かってるでしょ? それに、今回は完全なるあなたのミス。今まで人を殺めておいて、その言い草はないわ。」 「あなたに何が分かるのよ。暖かい家庭で育って、幸せの中に生きているあなたに! 草加は・・・この男は私の生きる希望だったのよ。」 「彼を生かすために殺しをし続けたっていうの?それを彼が望んだとでも思ってるの? そんなことないわ。ねぇ、もっとしっかり彼の顔を見たら?」 由佳の諭すような一言一言に清美はふと、草加の顔を覗き込んだ。 鋭い錦糸はとてつもなく彼を苦しめさせたはずなのに、その顔はとても穏やかで。 清美はその表情に愕然とし、 力の抜けた手からパサリと彼女のひざの上にあった扇が地面へとすべり落ちる。 「彼はきっとあなたの足手まといになりたくなかったんじゃないの?」 「うそよ。気づいていたはずなんて・・・。」 「夫婦ならきっとお互いのことを知り尽くしてるものだと思うし。 少なくとも私の知っている夫婦はみんなそんな感じだから。」 由佳はそっと清美の傍に座り込むと、落ちた扇を拾う。 「返して。それは母の形見なの。」 「あ、そうなんだ。じゃあ・・・。」 素直に差し出そうとした由佳の手に清美は内心でほくそ笑む。 それを渡した瞬間にあんたは死ぬのよ・・・。 そして、扇に清美の指がかかろうとした瞬間だった スッとその手の上にあった扇は忽然と消えたのは。 清美は驚いて由佳を見上げた。 「なっ。」 「そんな猿芝居に引っかかるとでも思ったの?図太い女ね。 大切な人を殺しておいて、まだ殺人を犯そうとするなんて。」 「うるさい。完全に騙されたと思ったのに!!」 「私に武器を渡したのが運の尽き。ねぇ、清美さん。 私、久々にキレてるの。意味、分かるよね?」 誰よりも大切な家族をいつまでも苦しめる組織。 顔を合わせるのは今回が由佳にとっては初めてで、 誰よりもこの瞬間を望んでいたのだと由佳は清美の顔を見ながら思った。 どんな相手であろうと、幸せを壊す輩は許せないから。 「さよなら。」 言葉と共に取り出された扇がスッと可憐に舞う。 「いや、いやだーーーーー!!!」 古びた館のエントランスに、清美の叫び声が大きく響いていた。 「さすがに殺しはまずいし、お母さんが悲しむからなぁ。」 発狂した清美を見下げながら、由佳は扇を彼女の傍へと投げた。 先ほど、近づいたときにかけたのは軽い催眠術。 体が切り刻まれるというリアルな幻想を見せ付けるための。 草加の一件があったせいか、予想以上に清美の脳内で幻想は実写化されたらしく 発狂した彼女はとどまることを知らないようにも見えた。 由佳はポケットから先ほど拾ったハンカチを取り出すと息を引き取った草加の傍におく。 本当に彼が愛されていたのか、愛していたのか、正直分からないけれど。 「寂しすぎるわよ。こんなの。」 由佳はスッと立ち上がると、くるりと体を反転させた。 こんな場所で止まっている暇は無い。 「絶対にこんな組織つぶしてやるんだから。」 |